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おばあちゃんへの手紙 1

父が亡き祖母宛に捧ぐ、小説を執筆中
私は曾孫として曾祖母宛の小説を校正中

小学生の頃、読書感想文を
父に添削してもらいながら書いた日々、懐かしい。

こうやって巡り巡るのが人生なのかもしれない。


 「悟(さとる)、何遠慮してるの。早く上がっておいで」


 私は玄関で靴を脱ぐのを躊躇いながら立ち尽くしていた。
 「おばあちゃん?」私は小さな声で恐る恐る尋ねる。
 「なに、当たり前でしょ。忘れちゃったの。さぁ、あがりな。早くしないとおばあちゃん行っちゃうよ。」


 頭の中がパニックを起こす。おばあちゃんは私が幼稚園の時に亡くなっていて、既に30年は経っている。しかも、目の前のおばあちゃんはどう見ても40代くらいにしか見えない若さだ。

 そして、もう一つ疑問。「早くしないといっちゃうよ」て何だろう。

 でもさまざまな不思議が解決されないままなのに、私の心の中はどんどんあったかいものでいっぱいになってくる。
 私は今、おばあちゃんに会っている。


 おばあちゃん子だった私は、いつもおばあちゃんと一緒にいた。

 日曜日は手を繋いで柴又の叔母の家へ2人で出かけ、花の咲く季節には堀切菖蒲園を散歩した。
 当時自宅にお風呂がなかったので、夕方になると決まっておばあちゃんと2人で銭湯へ行く。それも一番乗りで入れるように早く行って並んで待ち、一緒に入るのが日々の楽しみだった。

 うちは貧しかったから毎日というわけにはいかなかったけれど、それでも、たまに買ってくれるお風呂屋さんのコーヒー牛乳はとても美味しく、とても幸せだった。


 「どうした?」おばあちゃんの若々しい笑顔に私は意を決して、でも恥ずかしがっているのを見透かされまいと、照れ隠しに少しふてくされた口調で「わかってるよ。」と口を尖らせながら靴を脱いで玄関に上がった。

 本当は、とてもとても嬉しくて泣いてしまいそうなのに強がってすぐ近くの部屋に入り、その隅に寝転がった。

 台所の方で母とおばあちゃんは何やら楽しそうに話しながら、食事の支度を進めているようだった。
 この部屋から仲良く並んで立つ二人の後ろ姿が見える。
 目の前が涙で滲む。

 当たり前の風景がこんなにも温かく自分の心を包み込んで癒してくれる。身体中が内側から温もって、どこまでもどこまでも安心していく。

 そう、安心なんだ。
 このオレンジ色の光に包まれた懐かしい風景は私の安心そのものだった。
 私の中の平和そのものなのだ。

 ぼんやりとその幸せに浸っていると、不意におばあちゃんが振り向いてこちらにやってきた。
 私は慌てて涙をぬぐった。
 そして何食わぬ顔で寝返りを打って背中を向けた。
 その背中におばあちゃんが優しく語りかける。
 「悟、ずいぶん大変だったね。辛かったろ。今のおばあちゃんがしてあげられる事はこんな事しかないけど、ごめんね」と言って私の背中越しに一通の白い封筒を差し出してきた。

 「えっ、なに?」私は起き上がってその封筒を受け取ると、中身を覗きながら中のものを引っ張り出した。
 まず目に飛び込んできたのが5000円札のお金だった。
 続いて写真。
 よく見ると女の人の裸の写真だ。なんでこんなものが、と一瞬面食らっていると突然辺りが薄暗くなった。

 「あれ。」辺りを見回すといつの間にかそこは森の中だった。
 私はもう一度写真に目を通す。
 この裸の女の人は誰だろう。ずいぶん古い写真に思える。
 昔のブロマイドのような。不思議といやらしさは感じず、昔も今も流行りは変われど、世の男どもはこういうものが好きなのだなと思うと、なぜだかホッとするような感じがした。

  いったい何のために、おばあちゃんはこれを…

 ふと5000円札と写真の他に手紙が数枚入っていることに気がついた。
 私は手紙を読みながら、とぼとぼ薄暗い森の中を歩いた。

 何枚にもわたって書かれたその手紙を読み進めると、私の目からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。
 こぼれた涙を拭うこともせず、両手で手紙をぎゅっと握りしめたまま、涙で滲む文字を見つめながら、森の中を歩き続けた。
 時に嗚咽を漏らしながら、肩を震わせ私は泣いた。
 身体の中の辛いものが涙と一緒になって溢れ出るように、私の心の中は温かく軽くなっていった。

 それでも歩みを止めなかったのは、止まれば全てが消えてしまう気がしたからだ。
 この森の中ならば、涙を誰に見られることもない。
 溢れ出るものは溢れ出るだけ溢れ出させてしまえばいい。
 それで自分の中がすっからかんになってももうどうでもよいのだ。
 空っぽの自分ならまた何もかもが0から始められる気がする。
 そう心で思いながら、私は歩き続けた。

 でも、どうしても溢れる涙に視界をさえぎられ、抜ける力にあらがいきれず、いつしかその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。

 膝を抱えた腕に顔をうずめ、しゃくりあげていると、ヒックヒックという自分の泣き声が、いつしかどんどん近くに聞こえてきて現実味を増した。


 はたと気がつくと、私は布団を握りしめ、泣いていた。
 「夢か…」とつぶやきながら、でもしばらく泣き続けることを止められずにいた。

 私はそのままの状態で冷静に考えた。
 おばあちゃんの手紙の内容を。
 私がこんなに溢れる涙を堪えられずにいる理由を。
 でも、いくら手紙の内容を思い出そうとしても、無理だった。

 懐かしい風景や温かい気持ち、夢の中の風景は思い出せても、手紙の文面が見えてこないのだ。
 私はいったい、どんな文章を読んだというのだ。

 思い出せるのは、握りしめた手紙の上に並ぶ黒いインクの文字のような流れと、滲むその視界ばかりだった。

 ただ一つだけ言える事は、その手紙がどこまでも自分を癒してくれたということ。

 私は愛されている。
 かつても今も。
 そう実感したからこそ、深い深い安心の中で誰に憚られる事なく、泣く事ができた。
 辛い気持ちや寂しい気持ちを全て体外へ流し出すように。

 布団から起き上がり、急いで机に向かい、引き出しから便箋を出した。
 「返事を書かなくちゃ」私はそう強く思った。
 今すぐ。
 夢の中だったけど。
 手紙をくれたおばあちゃんに。

 文章は思い出せなくても、私を心配し、今も愛してくれているおばあちゃんに。
 十分その気持ちは伝わってきたよって、ありがとうって。


 思えば、日常の忙しさを言い訳に全然お墓参りにも行けていない。
 お墓参りどころか仏壇に最後にお線香をあげたのはいつのことだろう。
 あんなに可愛がってもらっていたのに。

 日々、自分のことばかり考えていた。自分のことばかり。
 その間もずっと、おばあちゃんは私のことを心配してくれていたのだろうか。
 私のこと、そして自分の残してきた家族のことを…。

 どおりで私は人生に行き詰るはずだ。
 こんなにすごいエネルギーを受け取らないで、見向きもしないでいるのだから。

 どんなにおばあちゃんが応援のエールを送ってくれていても、人生の困難を乗り越える力を送ってくれていても、それに背を向けている人には届かない。
 送る側と受け取る側、どちらか一つじゃ愛はその本来の力を発揮しない。


 母鳥が、大切な卵をあたためて雛に孵すように。
 あたためる側とその懐に潜り込んで包まれている時間が必要だ。

 そしていよいよ雛が卵から割って外の世界に出ようとする時を見逃さず、雛が内からつつくのと同時に親鳥はその同じ箇所をつつく。
 卒啄同時(愛が結実するとき)。
 雛の力だけでは殻を破り切ることはできない。
 でももし、親鳥が先走って雛の準備が整う前に殻にひびを入れてしまうと、雛は成長不良で卵の中で死んでしまう。
 逆に雛の合図に親鳥が気付かなければ、雛は卵の中で力尽きてやはり死んでしまう。


 今まさに、この同じ瞬間に、私はおばあちゃんに返事を書きたかった。
 おばあちゃんが私の殻を外からコツコツとノックしてくれているように思えたから。

 そして私は余計な文章など書かず、ただひたすらおばあちゃんへのありがとうの出来事だけをその便箋に綴った。

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