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おばあちゃんへの手紙11

夜と朝の狭間で独特の陰影と色彩を輝かせている
静穏な時間は本当にあっという間に終わった。

数秒前の情景が、
刹那の幻想であったかのようだ。


一日の貴重な始まりの時間を
プレゼントされたようで、
清々しい気分で満たされていた。

10分もすると、
朝日は日常の太陽へと姿を変え、
もう直視することはできない。

辺りも
先ほどまでの漆黒の闇はどこへ行ったのだろうと、
見紛うほど普通の晴れた朝の風景が広がるばかりだった。


「さぁ、
弘法大師が悟りを開いたという洞窟へ
行ってみよう。」

私が皆に声をかけた。

「洞窟?」と勇一が目を輝かせた。

「うん、すぐそこにある。
その洞窟を御厨人窟というんだけど、
お大師様が若かりし頃、
その洞窟に籠って厳しい徹夜の修行を続けていた時、
ある夜、空に輝く明星が飛来して、
口の中に飛び込んできた
という伝説があるところだよ。」

「行ってみたい!」と佳乃が飛び跳ねた。


洞窟は岬から本当にすぐそこにあった。
それだけ高知の山々が
海の側まで裾野を広げている地形ということだろう。

入り口は気持ち頭を垂れて入りたくなる高さ。
「失礼します。」と思わず手を合わせる。

一歩足を踏み入れただけでひんやりとして、
その空気感が外界とガラリと変わる。

それまで耳に届いていた雑音が取り払われた。


シーンと静寂が辺りを包む。

心が否応なしに、今この瞬間に惹きつけられる。
「これは集中できる。」と私は大きく首肯しながら思った。

子供達は恐る恐る
私の後ろに隠れるようについてきた。

「ポタッ」
時折、水滴の落ちる音がする。


奥へ行くにつれ、洞窟は徐々に狭まっていく。
もう腰を折りながら歩かないと頭をぶつけそうだ。

「カニだ」と勇一が叫んだ。

指差す方を見ると、
小さなカニが湿った岩場を
カシャカシャと横歩きしている。

思わずホッとした気持ちになったのは、
家族皆同じであっただろう。



いよいよ洞窟の突き当たりにたどり着く。

奥行20mくらいといったところか。
印象としては、
もっと奥深くまで分け入ってきたような気がするが、
外の光が届くのだからそのぐらいだろう。


神聖な厳粛さを秘めていて、
ただ洞窟の突き当たりというだけであるはずなのに、
暫し眺めているだけで、
風のような静けさに心が包容されている(ようである)。


そこは孤高の矜持を保つかのように、
ひっそり祀られていた。
その為もはや完全に膝を折り、
しゃがむように歩みを進めてきた。

我々家族一同は、
互いに何も言わぬまま、暫く沈黙し、
その名に背負う御厨人窟の
お大師様が座したという地を見つめていた。

どのくらい時が経っただろう。


誰ともなく、入ってきた洞窟の入り口に視線を翻す。

そこでも思わず息をのんだ。

薄暗い洞の入り口は、
丸く切り取られた一幅の絵画が
光り輝いているようだった。


空と海、
それ以外の一切を捨て去った世界が
そこには描かれていた。

洞窟によって視界が遮られる分だけ、
焦点が絞られ集中が増し、
鮮やかさが際立って目に飛び込んでくる。

見事に入口の丸、上半分が”空”、下半分が”海”。

お大師様がこれをもって
自分の名を”空海”と決めた所以だ。


紺碧の空とコバルトブルーの海。
胸に迫るその光景は、
映像というよりはその色を発した光そのものだった。

まばゆいばかりの光を放つ空と海が丸く切り取られ、
ほとんど荘厳といっていい風格をまとっている。


我々はあんなにも美しい世界からここに入ってきて、
そしてその艶やかな世界へと戻っていくのか。

戻っていく時は、
入る前は当たり前だと思っていたものたち一つ一つが
鮮やかな光に満ちたものだったと気づいて帰っていく。


やはり、お遍路修行と似ていると思った。


”虚しく往きて満ちて帰る”


霊山寺の和尚様の言葉が再び胸に去来する。

一番札所が入口なら、
八十八まわって出口はやっぱり一番札所なのだ。

この御厨人窟の入口と出口が同じように。


そして、和尚様も言っていた。

戻った一番札所は同じでも、
戻った我々は決して同じではない。


それは修行という洞窟の中から見た日常の尊さを
日常から一歩離れる故に大きく気づけるからなのだろう。

”遠離”は仏教の大切な呼吸、
間合いのようなものである。

どんなものからも、
必ず少し距離を置いて見つめてみる。

そのものと一つになることの大切さを説きながら、
そのものと離れて見つめる大切さも説く仏教。

それでいて、そこに矛盾が生じない奥の深さ。

何かの本に、
仏道は二重構造だと書いてあったのを思い出す。

まだまだ私の及ばない世界が広大に広がって在る。

そう思えるだけで、心の中を恵風が
優しく通り過ぎるのを感じとることができた。


愛と子供達が洞窟を出て行った。

私は名残惜しくて、
「先に車に行っていいよ。
もう少しだけお父さんここにいたいから。
すぐ追いつくから。」と、皆を見送った。


一人きり残った洞窟の中は、
凪のような静けさを保ち、
私を静寂の世界へと誘った。

お大師様と二人きり、
静かな洞穴に取り残されたように。

只々、入口に描かれた空と海を見つめる。


何かのタイミングを待つように、
ゆっくりと時間をやり過ごしていく。

流れていく、流れていく、、
光が、色が、音が、時間が。

それら一つ一つが私の皮膚の表面に、
触れては消えていく感触を残しながら、
あらゆるものが移ろいゆく流れであることを
肌で実感していた。

「私が生きている世界は、
とうとうと続く流れなんだ。」

その時の私はそう感得していた。


それは決して止まることなく、
まさに無限に続く変化によって構成されている
一時的な現象のようなもの。

刹那に構成された音も色も光も感触も、
この世界を一瞬にして作り上げては
すぐに姿を変えていく。


普段は鈍感になっていて
そんな感覚に気づかず、
同じものがずっと
そこにあるような気がしていたけど、
それが違う事が、
この否応なしに集中力が高まる御厨人窟の中で、
気づくことが出来る。

全ては瞬間瞬間で
変わっていくものたちで作られた世界。

だから、つまるところ
世界は瞬間に現れて瞬間に消えていくものなのだ。


そして、そのかけがえのない瞬間を知るのもまた、
刹那にしか存在しない瞬間
という自分の知性の働きに他ならない。


まだまだそこにいたかったが、
高知修行の旅は始まったばかり。

名残惜しみつつも洞窟を出ようと進み始めたその時、
「ああ」と思わず
声にもならないような感嘆が漏れた。

入る時は気づかなかった。

出る時はずっとこの光り輝く空海の入口を
眺めつつ進むわけだが、その風景もまた、
刻一刻と変化していく。

空と海だけ。

その映像の下方、一歩進むごとに、
徐々に砂利で敷き詰められた地面が現れてくる。

 ”空””海””陸”だ。

そして、その陸地には
先刻出て行った愛すべき細君と子供達が、
50mくらい先になるだろうか、
海と空との背景に加わっていたのだ。


私は言葉を失った。

キラキラ輝く波をバックに、
楽しそうにじゃれ合う子供達や細君の小さな姿は、
この御厨人窟の瞬間瞬間移り変わる光の絵画の中に
しっかり溶け込んでいた。

「あぁ、良かったね。」私はなぜか呟いていた。

焼山寺で雪舟さんの導きの中に感じた
あの感覚がまた蘇ってきた。

身体の力が抜けていく。
そのままでいいんだ。

何かを望む必要はない。
もう叶っているんだ。
ここはすでに叶っている世界。
叶っているから全てが存在している。
存在したから何かを叶えるわけではなく、
叶ったからこそ
この世界をしっかり味わっていくべきなんだ。

それは、
嬉しいことばかりではないかもしれないけど、
苦しい事も辛い事も悲しい事も
全て味わい尽くしてこその世界。

そのまんまを、そのままに…。


洞窟の入口であり、出口をゆっくり抜ける。


あらゆる音が一斉に耳に戻ってくるように、
世界が開け、空気感がガラッと変わる。

遠くで手を振る子供たちに私も手を振りかえす。

この世界で生きてゆく。

何が起ころうと受け入れて
自分の最後のその瞬間まで全てを見届けてやろう。

私は覚悟のような気持ちが
心の奥深くからふつふつと沸いてきた。

波の音が、くりかえしくりかえし、
何かを祝福しているかのように
我々を包み込んでいた。

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