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おばあちゃんへの手紙14-5


「みんな当たり前じゃない。」


少ししわがれているが
胸に染み入る温かい声であった。



「ここを歩くお遍路さんには
懸命な決意と発意がそこにある。


そして、そうした気持ちの隣には
お大師様が必ず寄り添ってくれている。

”同行二人”。

そんな尊いものを目の当たりにすれば、
それに感応できる人は皆そこに仏を見ます。

拝みたくなります。


つまり我々は
自分の発願のために
回っているようでありながら、

実はみんなの拝みの対象、
仏としての役割もあるのですよ。


つまり、灯です。

みんなが道に迷った時や、
人生の暗闇で我々を見た時、
灯を見つけるのです。

足元の道を確かめられるのです。


今あなたが
お遍路さんを拝む気持ちが芽生えたなら、
もう自分もそのお遍路なんだ
という自覚にも気づけるはずです。

もはや自分の願いのためだけに歩くことは
できませんよね。


白衣を着て金剛杖をつき
八十八ケ所を回っている時だけは、

自分はお大師様と共にある
仏様と同じなのですから。」



私たちは身じろぎもせず
有木さんの言葉を聞き入っていた。

神妙の感覚が全身をゾワゾワと駆け抜ける。


そういえば、そうだ。


私も最初、
このような過酷な四国八十八ヶ所を
不平不満を言わず、
自ら望んで黙々と巡る人々に

不思議な神聖さを感じ、
憧憬の眼差しをもって見ていたのを覚えている。

有頂天になっていた頃は
その存在は知っていても、
何も感じることがなかったものが、

人生につまづき
自分自身と深く向き合わざるを得なくなると、

俄然その存在感が自分の中で増していき、
それは灯のように
歩むべく道を照らし始めてくれた。


今はもうそうした先達の
歩いた足跡、トレースを
しっかり踏みしめるかのように歩み、探求し、
自分の中の道標としている。


行き交うお遍路さんに会釈をしながら、
心の中ではいつも合掌していた。


お遍路さんに仏の姿を見ていたのだろう。

それは、すなわち
自分自身たちにも当てはめられる
ということなのだ。



「自分の願いのためだけに
歩くことはできない…」

私の呟きに有木さんが静かに頷き答える。



「皆にどれだけ
自分の後ろ姿を拝んでもらえるか
が大事なこととなってきます。

だって素直に心から何かに手を合わせた時って、
とても心が暖かで幸せでしょ。

何か灯を、道標を見つけた気がするでしょ。

人にそのような気持ちになっていただくのです。

このお遍路を歩く間だけでも、
そのように人の幸福の役に立てるのですよ。」



有木さんの視点は
次々に私の新しい人生の景観を
開いていってくれる。


人は本当に自分のことばかりを考えている。


四六時中、飽きることなく、延々とだ。

一見他所のことを気遣っている風でも、
そのほとんどが
結局自分がそう気遣うことによって、
どう思われているかが重要であったりする。


つまるところ、どこかで自分が
よく思われたいという欲が巣食っている。


ゆえに霊場に籠り、
誰との関わりも脇に置いたところで

ただ一人、
人知れず祈りを仏神に託して、
皆に届けと願い続ける

この姿勢は、
誰の評価も求めず気にしない分だけ純度が高く、

もはや人の生き様ではなく、
神や仏の生き様なのだろう。


そして、こうした人々の
純粋な活動の先に、

このような仏の姿が溢れた霊場ができ、
悩み苦しむ我々がすがるように、そこに誘われ、

何かに気づくことができるのだろう。



そう、何かに…。



有木さんはふいに目を細め、
遠くを見るように静かに語を継いだ。


「でも、私は最近こう思うのですよ。

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