おばあちゃんへの手紙12-1
高知のお寺を順拝しながら、
道すがら龍馬ゆかりの地も訪ね歩いた。
宿は龍馬の実家があったとされる(跡地)付近に建てられたホテルに泊まり、
龍馬が子供の頃通ったとされる剣術道場跡地を訪ねたり、
高知城にも登城してみた。
そして龍馬ファンとして
何よりも訪れてみたかったのが桂浜である。
司馬遼太郎さんの小説
「竜馬がゆく」に何度も登場する砂浜で、
有志達によってそこに建てられた龍馬像を
一度この目で見ておきたかった。
この時ばかりは
子供達よりも大人の私の方が
少々興奮していたようだ。
「お父さん、なんか楽しそうだね。」
と佳乃に突っ込まれてしまった。
「よく静まった落ち着いた心でね。」
とたしなめられてしまい、
いささか張り切り過ぎてしまう自分を
制御するのに苦労した。
そしてとうとう、その時はきた。
浜辺に下りていく階段、
その入口手前の踊り場に彼は悠々とそびえ立っていた。
「でかい。」
私の率直な感想だった。
思っていた以上に
見上げるばかりのその大きさもさることながら、
その立像が表現している人物の
エネルギーそのものが、
見ているものを圧倒するかのようだ。
彼は海を見つめ遠い目をしていた。
潮風に吹かれ、
夏の陽射しに照らされながら、
下から見上げる我々観光客の
騒がしさを気にもとめず、
ただただ遠い日本の未来、
(日本の)時代の夜明けを遠望している。
今我々が享受している平和は、
この人たちの時代を経たからここにある。
今の自分よりもずっと若い青年たちが、
命がけでその時代を駆け抜けた。
何が正解かもわからない中、
自分の志だけを頼りに、
愛する者たちが平和で
安心して過ごせる日本を築くため、
皆が自分のできる事に全力を注いだ。
志とはまさに”心が指し示す”方向だ。
なんて純粋で一途な心だったことだろう。
幕末の志士といわれたこの青年たちの多くが
実際に次の時代の礎として、
その尊い命を散らしていった。
今の時代はまごうことなく
当時の青年たちの
命がけの生き様の上に築きあげられている。
坂の上に広がる青空に
ポッカリ浮かぶ真っ白な雲、
この坂を登ればきっとあの雲に手が届く。
青年たちにとって、その雲は幸せの象徴。
まさに心が指し示す方向だった。
上を向いて、雲を見つめ、
弱音を吐かずに飲み込んで、
それすらも自分の力に変えて、
一歩一歩そのきつい坂をひたすらに駆け登った。
青年たちはきっと知っていた。
(坂の上に)登りつめることができても、
坂の上の雲には決して手が届かないということを…。
でも誰一人、登ることをやめようとはしなかった。
この龍馬の眼差しのように
みんな遠い目をして
上を向き、笑いながら
その坂を登った。
決して自分たちが享受することのない幸せを、
でも自分たちが一歩でも近づいていれば、
次の世代が届くかもしれない、
幸せに一番近いところで、
幸せの雲の下で、
自分の愛する者たちが、
過ごすことが出来る世を夢見て。
ただそれだけの希望でも彼らにとって
命をかけるに十分な理由だったということが、
この悠然と遠くを見つめる龍馬の風貌でわかる。
遠い明日を見つめるその目は、
決して恩着せがましいものではなく、
ただただ憂いを宿しているばかりで、
「みんな幸せにやっちょるかい。
笑顔で暮らしちょるかい。
それだけが気がかりじゃきに、
頼むぜよ、頼むがぜよ、
笑ってつかあさい。」
そんな風に語りかけられているように見える。
「龍馬さんありがとう。
幕末を生きた皆さんありがとう。
敵味方はあったけど、
みんな日本の行く末を憂いて
力を尽くしてくれましたね。
僕たちは笑っています。
福島県の人も、山口県の人も、
どの都道府県に住む人々も、
お互いの生活を良くしようと働いて
笑顔で支えあっていますよ。
こんな素敵な日本が生まれました。
皆さんの思いは実っています。
ありがとう。ありがとう…」
私はそう何度も何度も念じつつ、
感謝の気持ちを龍馬像に注いだ。
天を一色に染めている透きとおるような蒼が
龍馬像を包み込み、
まるでご苦労様と癒しているようだった。
桂浜はなだらかな砂浜の先に
地続きで急な崖がせり出してきていて、
そこを登って高所からその崖に打ち寄せる波打ち際を
見下ろせるようになっている。
上から見下ろす波は大きく厚みがあって
海の底からゆりあげてくるといった感じで、
なおかつ波頭が横に長く
維持されて打ち寄せてくるので、
荒さよりも質量の大きさ、力強さの方が際立つ。
相撲の力士が太い柱を
ドシンドシンと突き押すように、
たっぷりの海水を山のように持ち上げた波が、
岸辺に叩きつけられていく。
そしてその波の透明度が異様に高いのだ。
海底の地形が上からよく見えた状態で、
夏の陽にキラキラ照らされた透明な液体が、
山のように盛り上がっては打ち寄せてくる。
力強い迫力と、
透きとおるような美しさが同居するその光景は
まばゆく光りを反射しながら淡々と繰り返される。
ただただ巨大な自然の営みという流れの中で
どうすることもできず、
いや、どうすることも許されずに、
立ち尽くし見守るしかないという感覚は
自分という存在のあまりの小ささに気付かされる。
そして、
自分が小さく無力に感じられれば感じられる程に、
心がホッとして安らいでくるのはなぜだろう。
どうしたって、
この圧倒的に巨大な流れの中で抗いきれはしない。
その自分を解放し促すような諦念が何かを願い、
しがみつきコントロールしようと
力み続ける自分の心身をフッと緩ませ
脱力させてくれるような心地よさがある。
結局これもおばあちゃんの法事の時に感じた、
自分がその世界に溶け込んでなくなっていくから、
他も相対的になくなり、
薄まって自分が小さくなくなっていく程
生まれてくる一体の世界、
安心安寧の世界に似ている。
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