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2人の悪魔#12

夢に雪降る



魔界というものは、基本的に天候に左右されることのない特殊な環境に置かれている。月の満ち欠けさえ稀なもので、時折悪戯好きで気まぐれな創造主たちによって多少齧られたような跡が残ったりする程度だ。だというのに、なんとも不思議な現象が起きた。

「…雪だわ、冷たくて…きれいね」
「ああ、こうして人間界でなくこちらで見ることになるとは思わなかったが…」

いつも通りの満月の夜に、なんの前触れもなくはらはらと小さな真綿が満遍なく空から降り注いだのだ。人間界へ赴くことのない悪魔たちはもちろんのこと、それが雪だと知らない者たちは好奇心を露わにさせてその冷たい感触を楽しんでいた。そんな中、フェニはハーゲルにつけられた傷が完治しておらず住処で大人しく療養していた。外の様子がいつになくざわめいていることに気が引かれ、のそりのそりと重い体を引っ張って外へ出た。するとそこには降り注ぐ白を物珍しそうにする悪魔たちと、見慣れた青の悪魔の姿があった。

「怪我の具合はどうだ?キミにしては随分と無茶な怪我をして帰ってきたじゃないか。まあ…以前エラを引き裂かれるような傷をしていた分、今の方が余程まともに見えると言うのは私も些かその異常さに慣れてきているのかもしれないが」
「……声出すのも結構しんどいわけ」

自分が思っているよりも不機嫌な声が喉を通り抜けたためか、目の前の男が珍しく虚をつかれたような表情を浮かべたがそれも一瞬で消え失せた。そこにはただ曖昧な笑みを貼り付けた男がいるだけだった。

「前回は自傷で今度はお望みの他殺だろ?なんでそんなに不機嫌なんだ」

他殺とはまた大袈裟ながら的確な例えだった。それに苦虫を噛み潰したような顔をして「うるせえよ…」とだけ返す。
そんなの、理由がわかったら苦労しないのだ。あれだけ待ち望んだ手合わせに、武器を用いた仮想戦闘。あの頑固と傲慢を固めたような男のほんの気まぐれに付き合わされただけだ。それがわかっているし、体にぶちあけられた傷跡は恐ろしいほど治りが遅い。血は止まっているはずなのに、少し身じろぎするだけで傷口が開くような鈍い痛みが走る。この痛みが全く引かないため、フェニはここ数日全く外出していなかった。そんな中飽きるほど見た白が一番あり得ない場所で降り注いでいたのだから、いっとき傷を押さえるのも忘れてその場に立ち尽くしてしまったのも致し方ないことだった。真綿は緩むこともより一層降り注ぐこともなく一定の速度で降り注いでいる。そのうちひとかけらがフェニの鼻先に落ち、体温に充てられてじゅわりと溶けるとそのまま頬を滑っていった。

「……つめたい」
「流石のキミも傷には障るだろ、とっとと帰って寝ていたらどうだ」
「寝てばっかでいてもなんもよくなんねえっての、クソ…」
「ハハ」

たまの雪見も悪くないな、と男は籠に薄い布をかけるとどこかへ姿を消してしまった。ともなると、冷たい雪の中で立ち尽くしている意味さえなくなってしまったため肩に雪水が垂れ落ちるのを待たずに住処の奥へと引っ込む。硬いベッドの上に無理やり横になると、ほんの少しでも外に出たせいなのか、ひんやりとした温度が肌を伝った。最悪なことに、またずきずきと傷口は痛み始めてきていた。それに堪らず眉間に皺が寄る。

「はぁ……」

手の甲を瞼に押し当て、少しばかりの仮眠をと暗闇に祈った。

ぽたり、と額に何かが落ちる感覚があった。
やけに冷たい。目を閉じたままでいると、再びぽたりと何かが上から落ちてくる。ぽたり、ぽたりと二度落ちたそれは絶え間なく落ち始めた。このままでは顔が水滴まみれになってしまうと体を無理やり起こす。

「……?」

鋭利な刃物で引っかき回されたはずの体は傷口などありもせず、真っ当な真っ平な顔を見せていた。そして、自分の顔に落ちてきていたものの正体を知る。自分が寝そべっていた場所は真っ暗な世界で、その真っ暗さも、あの見慣れた森の深夜のあの静かさに似たものを感じた。その暗闇の中で、はっきりと明確な白い塊が頭上にあった。大きすぎてそれがなんなのか判別がつかないほどであったが、フェニの中でこれかもしれないというものがひとつだけあり、確かめるように塊に声をかける。

「アンタなのか?」

問いかけは暗闇に吸われていき、返事はなかった。
普段なら、フェニの方が男よりずっとずっと背が高い。だというのに、今頭上にあるのは嫌になる程真っ白で血の気のない青白い足の裏だった。さらにその上から小さな雫がぽたりぽたりと落ちてくる。淡雪を溶かしたような、そんな薄さだ。

「なぁ、外の雪もアンタが降らせたのか?」

雫が落ちてこなくなった。その代わりに、両足よりももっともっと頭上から節くれだった薄い手のひらがフェニの足元でゆっくりと開く。掌に乗り上がるとぐんと高さが上昇し、フェニの前には暗闇に飲まれた深緑が現れた。その縁には淡雪のような雫が今にも落ちそうに溢れかかっており、凍った下睫毛がきわの部分でそれをとどめている。

「……ハーゲル、なあ、泣くなよ…」

深緑は何も言わずにじっと掌の上のフェニを見つめている。フェニは無意識のうちにハーゲルの目元へと手を伸ばした。すると、彼の薄氷に海を溶かしたような睫毛が瞳を覆い隠してしまうと同時にちょうどフェニの掌が目一杯溜まった雫に触れた。
しまった、と思うも雫は青白い肌を滑り落ちて遙か下の方で跳ねた。表情の乏しい彼ではあるが、目前でただただ涙を流す男はより一層死を間近に感じさせて、なぜかそれがフェニの心の柔らかな部分を刺激した。

「…おれ、アンタにつけられた傷が治らないんだ。それが嫌だし嬉しいし、…これがどんな感情からくるかわからない。ルキフェルに聞いてもはぐらかされて…アンタならわかるのか?」

それ以上に、彼に泣いてほしくないと思った。フェニに対して弱みというものを一切見せないあの男だからこそ、この「彼の姿をしたもの」を見て焦っているというか。

「なぁ…頼むよ、アンタに泣かれるくらいなら…俺のこといくらでも蹴り飛ばしたっていいし鼻で笑ったっていい。頼むからいつも通りにしててくれって…」

せめて夢の中でも傲岸不遜でいて欲しい。たまには優しくしてくれと思う時もあれど、いざそうされてしまうと何か見返りを求められているんじゃないかと恐怖に震えてしまうくらい手酷くされることに慣れてしまった自分に嫌気もさしてしまうのだが。

次は何を言って宥めたらいい、と思っていると視線を感じて顔を上げれば閉じていたはずの瞼が開いていて、深緑がじっとこちらを見つめていた。瞬きを全くしないので、その様子に背筋がぞっと寒くなるが、負けじと視線を見つめ返す。するともう片方の手のひらが頭上から降ってきて、蓋をするかのように掌の中で閉じ込められてしまった。とはいえ、指の隙間からちらちらと白い肌が垣間見えるのでそこまで恐怖は感じなかった。どうしたものかと思っていると、今まで一言も発さなかった男が掠れた声で、

『来い』

とだけ口にした。え、と思った瞬間に目が覚めた。
見慣れた天井だった。寝付く前は騒がしかった様子が嘘のように静かで、自分の肌もしっとりと汗をかいていた。顔に手をやると雪に手を突っ込んだかのようにひどく冷たく、その冷たさに思わず手を離してしまった。
直前までのやり取りが夢での出来事だとわかっていたのだが、最後に言い聞かせるように囁かれた声が耳にこびりついていてやけに濃い現実味を増長していた。
さらに不思議なことに、ずきずきと体を貫くような鈍い痛みがあったはずの傷口が完全に塞がっていた。

「……バケモンかよ」

その不気味さに思わず悪態をつくとそれに呼応するかのように一度だけ傷が疼いたような気がして、溜息をついて身支度をして半信半疑で呼ばれるように雪山へと足を向けたのだった。


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