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2人の悪魔 #11

幸福は氷像となりて


ハーゲルはかつて精霊であった。
冬を司る大精霊に仕える護衛騎士のような役を担っていた。男は雹を操る力を持ち、生まれ持った能力とは別に、自らの努力で手に入れた高い戦闘能力を携えていた。
彼が奮う力は同胞には細雪のように柔らかく降り注ぎ、敵には突き刺さる氷柱のように厳しく冷たいものであった。大精霊は男を含む同胞達をいたく愛していたし、雪を冠する幼き精霊の子らの隅から隅までを把握し、共に手を取り遊んであげていたくらい、冬の精霊一族は大変仲睦まじい「家族」であったといえよう。

それが破壊されたきっかけは、彼ら一族が棲家にしていた大きな湖畔の周囲に居を構えた人間達が、自らの利益のために奪おうとしたことである。湖畔の周りは森に囲まれ、草木生い茂る自然あふれた緑豊かな土地であった。それも全て、ハーゲルを含む精霊が住まう土地だったから、というのも今となっては知られるところとなったが、当時はまだ人々の耳に入ることはなかった。
豊かな土地は人々の暮らしをより良くする。そのために、以前はもっと山奥に暮らしていた人間達は湖畔の近くへじわじわと距離を詰め始めた。ハーゲルや他の精霊達が警戒心をむき出しにする頃には、日中湖畔の辺りを人間が彷徨くようになっていた。精霊の住む湖畔はいわゆる聖地のようなものとなり、そこに湧く水は枯れることを知らず、無限にこんこんと湧き出る。さらにその純度と清廉さは群を抜き、過去には聖水の互換としても使用されることがあったくらい神聖なものであった。だからか、古い人間は精霊の住まう土地には手出しをしてこなかったのだが、長命な精霊達とは異なる人間達は代を重ねて精霊信仰も薄れていったため、ただただ豊かな土地を求めて這いずり回る獣と化していた。人間の数が増え、集落の数が増えてくると、当然集落間で諍いが起きる。水源の確保もその諍いの火種のひとつであった。
湖が狙われていると断定してからは、時折様子を見にくる人間を少し脅かして様子を見ていたのだが、ある日ぱたんと人の出が消えた。仲間達は非常に安堵し、肩を抱き寄せあって溜め込んでいた不安の言葉を口にした。けれど、主神である大精霊と、彼らを守る騎士たちの一部は浮かない表情であった。何か悪いことの前触れではないかと危惧していたのだ。そして悲しくも、その予想は的中してしまう。

ハーゲルは今でも、日暮れの赤い空を見ると思い出す。
ぱちぱちと炎の弾ける音。木々が体を燃やされて呻く悲痛な声に混じって、熱いの、痛いよ、助けてと泣き叫ぶ幼き子達の悲鳴がかき消されていく。冬でも凍らない湖畔の水は人間達を愚かな思考へと追い込んだ。
最悪湖畔さえ残ればいいと誰かが言い出した。そして、周囲に畑を作って水を引けば、いい作物ができるのではという声も上がった。話はとんとん拍子に進み、陽が眠りについた日没直後に赤い悪魔が投じられたのである。炎はたちまち緑を飲み込み、瞬く間に萎びた枯れ木へとその姿を変えてしまった。地面から精気を吸いあげていた木々が枯れてしまったことで、地面から直接精気が漏れ出していき、循環がうまく行われないことでみるみる土地は荒れ果てていった。炎は留まることを知らず、轟音を立てながら彼の故郷を食い潰していった。大人達は暑いの、溶ける、怖いよと泣く子らを抱きしめる間も与えられずに、むざむざ己の目の前で結晶になって溶けていく様を見せつけられることとなった。数は1人、また1人と減っていき、湖面を炎が赤く染め上げる頃には大精霊とハーゲルだけが残された。大精霊は、同胞達を1人でも多く助けようとしたために、その能力を大幅に失っていた。雪原に降り注ぐ真綿のように真っ白だった髪や、薄氷のような薄肌を包む布地は今にも熱に煽られてしまいそうなくらい透き通り、その熱さからぽたぽたと雫を垂らしていた。

「ハーゲル、我らが崇高なる剣よ」

炎が耳を裂き、喉を焼き、視界を妨げる。黒煙が立ち上る中、主の優しくも通る声が朧げな意識を僅かに引き留める。

「この地を守り抜くのだ、お前に託す」

この地は我らのもの、けして渡してはならぬ。
それが主の遺言となり、ハーゲルの生涯の錨となった。

主人を失った湖畔はパキパキと硬い音を立てながら凍りついていった。冬という大精霊が消えたことで、その土地の守護者が自動的にハーゲルへと遷移したのである。湖面が完全に凍りつくまで、男は呆然と火の中で立ち尽くしていた。ただの一度も、その手から零れ落ちたものなど無かったのだ。体の奥底がしんと冷え切り、元々感情の薄かった心に明確にひびが入ったのを感じ取っていた。頭の中では幾つもの思い出が現れては固まり、すぐに氷像としてその姿を連ねていった。あたたかな笑顔のまま、照れた顔のまま、抱きしめられた安堵の顔のまま、好意を口にする躊躇いがちな愛しげな表情が。その時間だけを切り取ったかのように氷に覆われていった。
ばきん、と最後の湖面が凍りついた瞬間、わあっと歓声を上げて大勢の人間達が湖畔へ雪崩れ込んできた。だが、誰もが湖を渡ることなく絶命せざるを得なかった。主や同胞と同じく薄氷のように透き通っていた男の肌は体温のない暗い土気色へと変化し、陽の光を全面に受け止めていた瞳は暗闇に呑まれ、かつて湖畔に映っていた緑をぽつんと映し出していた。その身が数分前まで神聖な気を放っていたのが嘘のように、男の気配は邪なるものへと変化しつつあった。ぽたりと暗闇から零れ落ちた雫は空中で氷の粒となり、地面に当たってあえなく割れた。かしゃん、と僅かな破砕音は、男の心が壊れる音かのようにも思えた。彼に襲いかかった人間達は、彼の放つ邪気と憎しみを真正面から受け、呪い返しのような理屈でその身を滅ぼしたのである。

「は……」

先ほどよりもずっとずっと静かになった沈黙の森の中で、泣き声とも苦しみの吐露とも取れる声が漏れる。己の情けなさにも、仲間の喪失感にも、孤独への諦念にも取れる、切なさの籠った小さな音だった。ただただ、泣きたくて仕方なかった。火は消えたものの、しがみついていた子らも、最後まで人間の魔の手を退け続けた己の主さえ失い、遺されたのは魔に冒された己と、その己の邪気によって少しずつ神聖さが薄れつつある一族の故郷だけ。まともな神経でいられる方がおかしかった。
震える手で、枯れた樹木に触れる。すると、拒絶反応の中に微かに精気を流す感覚が伝わってきたことに驚く。魔に冒された身でありながら、ハーゲルの体は精霊としての機能を失っていなかったのである。それを他の樹木でも試して確信すると、先ほど厚い氷に覆われた湖面を覗き込むように、縁に座り込んだ。そのまま、前屈みになってぺたりと掌を氷へと沿わせた。すると驚くべきことに、じわっと表面が溶け出したのである。それは間違いなく、ハーゲルの精霊としての邪気の浄化作用を証明してくれていた。だが、湖面は溶けた瞬間から再び薄氷を張り始めていて、ハーゲルの身が魔に堕ちたことをも示唆していた。2つの事実を把握したハーゲルはそっと湖面から離れて深呼吸すると、空中に掌をかざして上から下へと空気をかき混ぜるように撫でた。そしてその動きに合わせ、ふうっと吐息をこぼす。すると、たちまち周囲は霧が立ち込め、次第に大粒の雪が降り始めた。

「この恨み、必ず何倍にしてでも返してやる…」

ああどうか、神がおわしますなら。
我らの主と信頼篤き同胞と幼き子らの生きた影が失われませんように。
己の残された力がお役目を果たすまで加護を受けられますよう。
そして、彼らの命を奪った憎き魂を屠る力をお貸しくださいますよう。
それが許されるならば、喜んでこの身を捧げましょうとも。

「…この声が届くならどうか、…ああどうか、僕に絶対的な裁定の槍をお与えください…!」

喉の奥から振り絞るような声は降り積もる雪に吸収され、すぐに静寂が訪れる。それでも男は顔を上げ、瞳を伏せ、真摯に神に祈った。そのひたむきな姿が神の目に哀れに映ったのか、再びハーゲルが瞳を開いた時、空中に氷と見紛うような三叉槍が浮かんでいた。内心驚き恐れながらもその槍に触れれば、元々男の持ち物であったかのように、槍はハーゲルの手中に収まった。

「…ハハ、神なんてクソ喰らえだと思ってたが…哀れな子羊には救いの手を差し伸べてくださるらしい」

呟いた皮肉な言葉は誰に聞かれることもなく、白に溶けていった。



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