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2人の悪魔 #10

闘気迸る


⚠️今回出てくる「三又の槍」はフォロワーさんにイメージ画像作っていただきました。それを元に描写しています

上:ハーゲル 下:フェニ



「ハイ、あーん」
「んあ」

口の中に花の蜜が行き渡る。その生気の余韻を舌で転がしていると、自身の身の丈ほどの匙を抱えた小さな淫魔が「ねぇ」と男に声をかける。

「ハーゲルってば、最近あの炎の悪魔に絆されてきてなぁい…?」
「げほっ!げほ、げほ…っハ、…何を」

取り繕う暇もなく、気管に息が詰まって咳き込む。言われた言葉を正しく理解できずに不覚にも一瞬思考停止してしまったのだ。溢してるわ、と少女が口の端を小さな手で拭ってくれる。それをさらに雑に拭いながらゆっくり深呼吸した。

「た…確かに最近適度に構ってやってるが……それはそうでもしないと何時間も!何日も!この洞窟に居座るから仕方なく」
「にしてもよ!あの日からずっと私が来てもジャンヌが来てもあの悪魔がいたもの」
「そう……か…?」

そんなに頻繁だったかと悩んだが、考えてみれば催淫の実で酔ったあの男を介抱してからというもの常に入り浸っているような。いないような。
ふと、目の端に無造作に束ねられた黒っぽい毛束を認める。その視線に気付いたのか、少女がすーっとそれに近づいて「きゃっ!?」と慄いた。毛束の正体は、フェニの狼耳の抜け毛である。万が一の時に使えるかと思って、この洞窟内に落ちた毛をちまちま拾っておいたのだ。

「…ど、どうしてあの悪魔のものを持ち歩いているのよ…!?」
「僕に危害を加えるようなことがあれば呪いに使えるかと」
「……残滓だけで相当なもの、嫌な匂いがする…!早く目につかない場所にしまって!早く!」
「わかった、わかったからそうキャンキャン吠えるな。騒がしい」

ぱちん、と指を鳴らすと毛束はたちまち氷に覆われ氷塊となってごとんと床へ落ちた。それを拾って洞窟の奥にある作業机の引き出しへと仕舞い込む。

「リリー、ほら。しまったぞ」
「…ほんとう…?」

小さな彼女は銀の匙を抱えたまま近寄ってすらこない。その様子に浅く溜息をついてゆっくりと彼女の元へ戻る。

「こわいの、こわいのよ」
「…ああ」
「何も考えずに弄んで!虐げて!潰して壊す!…本当にこわいのよ…」

ほんとうよ、こわいのよ、と何度もうわ言のように繰り返す彼女は小さな赤い瞳にたっぷりの雫を貯めて訴える。その様子に、今日はもう遊んではやれないかと思い、彼女に帰還を促した。

「…怖がらせてすまなかった、だがあの男は近いうち再び訪れる。ジャンヌはともかく…リリー?君がそこまで恐怖を感じるのも珍しい、気持ちが落ち着くまで僕の願いに応えなくても構わない」
「ハーゲル…」

ほんの少しだけ躊躇したのが窺えたが、やはり恐怖には逆らえないようで、銀の匙をハーゲルの掌へそっと置いた。

「ごめんなさい」
「なぜ。僕の精気を吸わせているのは僕の意思によるものだ、お礼はされども謝罪を受ける謂れはないはずだが」
「…ハーゲル、あなた本当に優しいわ」

大好きよ、と微かに花の香りを頬に残して少女は消えてしまう。
彼女が姿を消してから、ハーゲルは手のひらに置かれた小指の2関節ぶんくらいの匙を小箱へ仕舞い込んだ。

「……また話し相手が減ってしまった」

リリーにはああ言ったのだが、ハーゲルの睡眠を手助けしてくれていた夢魔の少年も、既に仮休暇をと口惜しげに伝えられてからしばらく姿を見せていないのだ。
こんな山奥の、しかも雪山の主とも噂されるほどになってしまった男の場所へと訪れる物好きなど、今ではたった1人しかいなくなってしまったのだ。

「責任とってもらうしかねえよなぁ」

はぁ、と久方ぶりについた溜息はやけに大きく洞窟内に響いたのである。

***

ハーゲルがそんな重苦しい溜息をついているとは思いもしない男が意気揚々と雪を踏む音が静かな峡谷に微かに響く。

「なァ!アンタ今日は何するか決まってるか?!」
「……うるせえ」

ごめん、と少しおとなしく声量を落としたかと思うと雪窟の入り口で手持ち無沙汰気味に立ち尽くしているのを見て、ハーゲルは本日2回目のため息をついた。

「いい、座れ」
「!」

この大男、何度かこっぴどく叱られたのが効いたのか、ハーゲルの許し無しでは洞窟内に足を踏み入れることすらできなくなっていた。それこそ初回の頃には躊躇いなく踏み込んできては不躾にあちこちのものを尾で叩き落としたりしてそれはそれは思い出したくもないわけだが。座れと許可を出せば、藁を敷いてある方ではなく地べたの方へ丁寧に胡座をかく。ハーゲルは洞窟の中をさながら人間が生活するのとほぼ同じ環境下に整えてあるため、地べたとはいえそう汚くはしていない。椅子を勧めるのはアダムやイーヴァだけでいいと思っているので、哀れだとか思うことはないけれど。本人が好んで床に座りたがるのならば放っておけばいいとも思っている。

「……ハーゲル、今日疲れてる…のか?」
「そう見えるか」
「う、うん…俺のせい?なら帰るけど…」
「殊勝なことを言う脳があるなら顔もそれに整えてから言うんだな」
「ぐぬ……」

しれっと指摘してやれば、心底苦い顔をして「かえんない…」と口にした。大の大人がきいて呆れる態度だが、ハーゲルにしては珍しく体を動かしたい気持ちであったため、床に座る大男に「外に出ろ」と声をかけた。

フェニが完全に雪窟から離れたのを見て、己も雪を踏み締めて河川の近くへと歩み寄る。
フェニはと言えば、珍しく背を蹴り飛ばされずに外へ出されたことに困惑している様子で向かいのこちらを見つめている。その様子は親鳥から餌をもらう小鳥のようで、思わず鼻で笑ってしまった。

「たまにはいいだろう、ちゃんと手合わせしてやる」
「え」

空を縦に切り裂くように手を翳す。すると、手のひらが空を撫でたところから氷の槍が姿を現した。ハーゲルの身の丈以上もある大ぶりな槍は三又に分かれており、切先はそれぞれ返しがついていて獲物の喉元を引っ掻いては切り裂く形だと瞬時に判ずることができた。鋭利な刃にふ、とハーゲルが息を吹きかけるとバキバキと硬い音を立てて三又が氷に覆われ、より一層その剣呑さを増す。

「僕がこれを持って戦う機会なんてほぼない。無用の長物というわけじゃない、殺すパターンを増やしてどうする、という話だ」
「まー…確かにソレで喉裂かれたら俺、エラ開いちゃうかも……」
「ハッ」

それだけで済むといいが。そう言い終わらないうちにハーゲルは腰を屈めて低く槍を構えた。精霊の中に武闘派はあまりいない。というより、魔力や精気を消費して戦う方が一般的なため、ハーゲルのように自ら武器を用いて戦う者が至って少数派だというのがこの論の正体である。

「よそ見するとはいい度胸、だな!」
「っくう………!な、……っに、おう…!舐めるなよ!」
「ハハッ」

フェニは基本近接戦が得意であるため、中・遠距離を取って戦うハーゲルとは正直なところかなり相性が悪い。いつも通り氷の塊をぶつけるくらいであればこの男でも容易く相手ができるだろう。だが、この不法侵入男に軽くあしらわれる程度の悪魔ではないし、こんな奴に負けたとなれば悪魔の格に傷がつく(ような気がする)。

先に刃を当てたのはハーゲルで、フェニは返しが頬骨の皮膚を切り裂いたのを避けることでなんとか大事を防いだ。

「あっ……ぶな…」
「ふん、もう少し早くてもよかったか」

体格や力だけで見れば圧倒的に有利なのはフェニであるが、経験年数や単純な場数の多さが、この男を追い込んでいる。ハーゲルは元精霊でありながら、元来縄張りを侵す侵略者たちを追いやる役目を担っていたため、こうした戦闘には非常に手慣れていた。若者の指導やそれこそ鍛錬も兼任していたこともあり、正直なところフェニの手合わせ程度ならお手のものであったが、それをしなかったのは単純に「強さ」を目的としてやってきているこの男に目をつけられて、今まで以上に入り浸られるのを避けるためであった。
フェニがより強きを求めて強者を屠るのであれば、ハーゲルはより極みを求めて己を鍛える節があり、てこでも帰らないこの男をいっそのこと己の成長の為の踏み台にしてやればいいのでは?と最近になって考えを改め始めたのもいいきっかけだった。

「ほらほら、避けてばかりか?その爪はお飾りだったということか」
「なにくそ!」

ビュッと長い腕が空を切る。腕も長ければ爪も長いフェニが一度腕を振り回せばそれに加わる力は遠心力によって何倍にも膨れ上がる。フェニの爪先があと一歩というところでハーゲルの裾を掠めた。

「ハ、危ねえなァ」
「冗談も休み休み、」
「もう息切れしてんのか、避けてばっかで対して反撃もできてねえのに」

まだお前に武器使ってやるのは早かったか?とわかりやすく煽ってやれば、鱗を持ち上げるようにして男の額に青筋が浮かぶ。それを見てしまっては、さすがのハーゲルも口角が上がるのを我慢できなかった。耳元の炎は火事さながらに轟々と燃え上がって男の興奮を視覚的に表す。

「絶ッ対に1発!殴ってやる!」
「へぇ」

雪に覆われた地面はフェニの身体から放たれる熱気でどんどん溶けていっており、その当人の体からも迸る殺気と熱気がその場を充満させていた。ここのところの男は、まるで飼い慣らされた子犬のようだとすら思っていたというのに、今目の前にいる男はまるで牙を向いた獰猛な狼のようだった。

「(従順な子犬も嫌いじゃないが、これくらい元気な方がやっぱり楽しいな)」

間髪入れずに繰り出される拳を受け流しながらそんなことを考えていると、今まで槍に触れさえしていなかったはずの拳が明確に槍の返しに引っ掛かるようになってきていた。そのことに酷く高揚する。戦闘を重ねて自らの体にその体験を刻みつけて戦闘能力を上書きし続ける男にいたく興奮した。殺気の籠った目は燻ることなく一点を見つめている。その光り輝き燃え続ける火の星のような瞳は、己をただ一度だけ理性のない生き物へと変えた。

ざしゅ、と何かを切り裂く音がした。槍が刺した方向へ引っかかる感覚があった。

「ぬ、くな…!いっ……てぇ……、クソが…!」

我に帰った時には一歩遅く、氷を纏った切先は血に濡れていた。身体から引き抜こうにも、槍の返しがついているせいで抜くに抜けぬと男は苦戦していたのだった。壊してはだめ、堕としてはだめ、殺してはだめだと頭の中では何度も言い聞かせていたというのに。

「……何笑ってんだよ、お前」
「え?」

苦し紛れの声に憎しみがこもっている。敵意を乗せた眼差しはそれだけで人を殺せそうだ。そんな視線を浴びてようやく、己が笑っていることを知った。震える手で口元に手をやると、かつかつと歯列が微かに音を立てながらうっすら口唇が開いているのがわかった。

「…痛いよなァ、少しくらい痛い思いしたって良くないか?」
「ンな訳ねぇだろうが!」

しんとした谷に怒号が響く。ばさばさと鳥の飛び立つ音で、大袈裟に両耳を塞ぐようにしてやれば脛を蹴られる。まだ苦しむ姿を見て満足しておきたかったのだが、これ以上大声を出されてはどこかしこの山で雪崩が起きてしまうと心を納得させ、パッと槍を出した時と同じように『なかった状態』にする。呆気に取られる男をよそに、ぱっぱっと両手をはたくようにして些末な汚れや氷の破片を振り払った。

「早めに手当しないと酷く傷むぞ」
「誰のせいだと!」
「なんだよ、お望みの喧嘩だっただろうが」
「………っぐ…」

フェニは脇腹にひと刺し、頬に何本か裂傷だけというさすがの身のこなしというべき怪我の少なさであった。
とはいえ、対するハーゲルは息切れなし、目立つ怪我なしという出立であったため、それがより一層フェニの怒りや苛立ちを煽っているようだった。とはいえ、ハーゲルが言ったことも図星なようで、男がそれ以上言葉を言い重ねることはなかった。

「さ、帰った帰った、うちに血の匂いを残していくな」
「ぬが!!!!!」

睨みつける額を足の裏で背後にそのまま踏み倒せば、やけに嘘っぽい呻き声をあげて後頭部を雪面に擦り付けた。普段なら擦り付けられた瞬間に飛び起きて一言申し上げる元気があるはずなのだが、一向にその気配を見せない。身じろぎひとつしないので、時化た面でも拝んでやろうと見下ろせば、白目を剥いて気絶していた。

「………」

つん、と指先で頬をひと突き。

「……まあ…死にはしないだろ」

一瞬。ほんの一瞬心が痛んだような気もしたが、何事もなかったかのように踵を返したのである。


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