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2人の悪魔 #13


朝露のくちづけ



フェニがハーゲルの無意識意思に導かれて雪山を越えている間、当のハーゲルは珍しく体を壊していた。というのも、己の意思のままに槍を奮ったことが堕ちきっていない精霊の意思を刺激したことで己の中での意思達が反発しあったのが原因である。精霊はもちろん、悪魔も人間のような病気や熱に脅かされることはない。だが、似たような症状はこうして訪れることがある。これも人間の症状に例えるならば、偏頭痛と二日酔いのあとの気だるさに似たものといったところだろうか。ハーゲルはジャンヌと共寝をするのを一時的にやめていることもあり、本来の不眠が再び復活してきていて、それもまたこの症状を重くしている要因でもあった。

「…なーんだ、今日は運が悪かったなァ」

洞窟の中で土壁に寄りかかるようにして青白い肌をより一層白くしながら、ひゅうひゅうと喉奥から掠れた吐息が漏れる。そんな中、開けていた入り口にひとつの大きな影が現れた。頭に翼を冠した大男は無遠慮にハーゲルの住処へと足を踏み入れる。その目は言葉通り「つまらない」と物語っていた。

「ン?めずらし、お前が体の具合悪いなんてな」

ひとことふたこと言い返してやりたかったが、身体の重さがより一層口を開くのを億劫にさせる。
何も返事がないのを不審に思ったのか、かひゅっと乾いた音を出す喉元に手を当てながらこちらの様子を伺う男にじっとりとした目線だけをくれてやる。目尻を少しばかり上げるだけで冷や汗が頬をつうっと伝って落ちていき、ぱきんと硬い音を立てて床面で割れた。その破片を細く節くれだった指がさらっていった。

「フーン、これも力の抑制ができてないからなのか?」

ハーゲルが座り込んでいる床面には同じようにばらばらに砕けた氷の破片が散らばっていた。
それを手の内でぎゅっと細かな粒にして床へ撒き散らすと、アダムスはその体躯を縮こませてハーゲルの斜向かいへと座り込んだ。

「青白い顔」
「ん…」
「元の肌は冷たいのに熱で触れるのも躊躇うほど熱い、俺まで気持ち悪くなりそうだ」

普段ならそのままカラカラと笑いそうな男は打って変わって、美しい顔に慈愛の笑みを浮かべてハーゲルの頬に手を伸ばし、そのまま甲を擦り付けるようにして頬を撫でつけた。

「……どんな思惑で?」
「我が子を労ってやることの何が悪いんだよ」

ハーゲル、とアダムスが子を想う親のような情を乗せた声で名を口にする。ハーゲルもわざわざ口にするほどのことではなかったが、物事を茶化さずに真摯な向き合い方をするこの男のことは好ましく思っていた。だからか、再び睫毛から落ちた雫を節くれだった指がすくっていったことにもされるがままであった。

「お前が素直だと気が狂っちまう、早く体調戻るといいな」

苦痛から閉じていた瞼を開けると、アダムスの手に小さな花が握られているのが目に入った。朝露をぎゅっと閉じ込めた、今にも溢れ落ちそうな新鮮な花の精気そのものだった。

「今回だけだぞ、俺が直接手ずから食わせてやるなんて」
「…余計な世話、焼くんじゃねえっての…」
「今にもくたばりそうな顔で何言ってんだっての。ほら、口開けろ」

もとより抵抗するつもりなど毛頭ないので大人しく口を開け、飲み込みやすいように舌を外へ伸ばす。

「こんなに悪いって知ってたらもう少し大きい花にしたんだけどな」

ぽた、と舌に花の精気を吸った露が落ちる。途端に舌の上でじゅわりと精気が溶け込み頭痛が即時に収まっていく。今回の症状は思っているよりも精霊としての精気渇望症に近いのだと実感させられた。そのままアダムスの手からごくごくと花の雫を体内へ取り込んでいく。

「あーあ、もうなくなっちまった」
「…本当、もう何本かあったらよかったんですけど」
「贅沢言うなよ!…まぁでも?そこで覗き見してる炎のトカゲちゃんにでもお使い頼んだらどうなんだ」
「……ハ」

ばきん、と氷を踏む大きな破砕音がして、頭痛の治まった顔を少しばかり上げると珍しく焦った表情のフェニと目が合った。

「俺のお見舞いはもー終わり!もう少ししたら立ち上がれるようになるかもなんだろ?そしたらそれこそフェニに頼んだらいい、お前の頼みならなんでも聞いてくれるんだろ?」
「……コイツを買い被りすぎだろ」
「さてな?」

ハーゲルはこれ以上問いただしても無駄だと思い、早々にアダムスを寝床から追いやった。
そして、ハーゲルの寝床にはフェニとハーゲルの2人が残された。
フェニは気まずそうな表情のまま、床へ座り込んでいる。時たま視線を感じるので、ちらちらとこちらの様子を伺っているのがわかる。

「言いたいことがあるなら言えばいい」
「……っ、言い、にくい…」
「なぜ」
「ゆ、」

ゆから始まる言葉とはなんだろう、とハーゲルは重い頭で考える。

「夢に…アンタが出てきて…」
「へえ」

少し驚きはしたが、想定内の範囲ではあった。

「夢の中のアンタが俺に来いって言ったんだ」
「で?」
「で…そ、その。俺の間違いじゃなきゃ…アンタ泣いてた。俺が思うに、アンタは弱みを一切見せないし、見せようともしないだろ。そんなアンタが夢の中で泣いたら…動揺するだろ…」
「………はぁ」

心象に関与してくるまでに自分はこの男に情が移っていたのだと思い知らされて、自己嫌悪からため息が口から溢れ出す。
フェニはといえば、ハーゲルに報告したことの音沙汰を大人しく待っているようだった。酷であることはわかっていたが、その様子はさながら死刑宣告を受ける患者のようだった。

「その陰気臭い顔を僕の前に晒し続けるくらいなら、その辺で露を多く含んだ花を摘んで来い」
「わ、わかった」

男は転がり出るように洞窟を出るとあっという間にその姿は見えなくなった。時折雪を踏む音が聞こえるので、そこらの川辺で植物を探しているのは推測できた。
ようやく来訪者の途絶えた洞窟内で、再びハーゲルは大きく深い溜息を吐いた。その嘆息は己の中での男の存在の大きさと、その存在を悪くはないと思ってきてしまっている己自身に向けられていた。

「こうもわかりやすく好意を飛ばしてくる奴なんかいつぶりだっての……」

記憶の果てを辿った先の最新の思慕の情となると、精霊時代に後輩の少女達に伝えられたものくらいだろうか。その次は己の体躯のひと回り半もある巨躯の男からとなるとは予想外にも程がある。

「……まぁ、本人が自覚していない可能性もあるが」

それが一番考えうるものだ、と己を納得させる。床に膝をついて立ち上がると、まだ視界が揺れて心許ない。壁に頭をくっつけるようにして波が静まるのを待つ。

「辛いなら寝てろよ、より一層青い」
「うるさいな…」

不調もあっていつにも増してやけくそな対応をしてしまう。苛立ちながらも額に張り付く髪を拭うように掻き揚げればおずおずと掌が差し出される。力を入れすぎるのが恐ろしいのか、指の腹で軽く握り込むような形で束ねられた色とりどりの花が、雫を垂らしながら摘みたての精気をふりまいていた。
もう既に勿体無いだとか考えるのも指摘するのも面倒で、フェニの手首を掴む。呆気に取られた声が聞こえたものの、それに囚われずに手の内の花に鼻の頭を突っ込んで深く肺の奥まで届くようにゆっくりと息を吸った。一瞬身じろぎしたものの、男は顔を逸らしたままされるがままだ。数束分の精気を吸って人に悪戯をする余念が出来たこともあり、この男の本心を探ってみようという邪な考えが頭をよぎる。花粉を少し手で払ってから男の手から花の束を攫っていく。改めてよくよく見ると、ちゃんと露の垂れた瑞々しい花ばかりが揃っていた。精気溢れた花の良し悪しなどわからないだろうと思っていたのだが、アダムスとのやり取りをどこからどこまで見ていたかはわからないにしても、己が出した指示通りの花を選んでくるくらいはできるらしい。

「……」

下から掬い上げるようにツノの隙間から手を差し入れると、その手の冷たさからか数度瞬きを重ねたがこちらが見つめる視線を遮るかのように長い睫毛が夜闇に燃える炎を掻き消した。輪郭をなぞるように頬を撫であげ、顎の縁をかりかりと引っ掻いてやって、少し屈むように促す。そうすれば男は己よりもひと回り半大きな上躯を畳むようにしてこちらへ体を寄せてくる。そうしてようやくハーゲルの口元にフェニの燃える獣耳とツノが降りてきた。そして片手を頬にやったまま、ツノの陰から少しだけ覗く皮膚に口付けを落とした。

「は」
「たまには褒美もやらねえとな?」
「えっ」
「不服か」
「あっ…いや…そ、そんなんじゃなく、て…っ」

我ながら大胆な事をしているという自覚はある。口付けをくれてやってもいいと思うくらいこの男に許してやっているのだということも思い知らされる。だがそれもいいと思えた。だから今の心境としてはこの男の反応が見たい、ただそれだけだった。案の定薄紫の肌が赤紫になるくらい…その炎の上がる耳元から白煙が出そうな勢いで赤面している。口付けをされるということがどんな意味なのかは知っているようで内心安堵する。流石にそこもわからないとなると一体どこから話してやればいいのかと悩んでしまうから。

「ほ、他のやつにもやってるのか…?」
「ハッ」

あまりにも無意識的な独占欲の表れに思わず鼻で笑ってしまう。

「僕がそれをすると思うか?」

疑問を疑問で返してやれば、ぶんぶんと勢いよくかぶりを振った。必死すぎると思われても仕方ないくらいの勢いだったからか、ははっと軽い笑いが喉から溢れる。なぜ僕が笑ったのかわかっていないようで、また少しだけ困惑した顔で小首を傾げる様は意外にも可愛らしいと思ってしまったのだった。


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