8mgの鬱憤
『ただいま』
私の声が、リビングへと続く少し狭い廊下に響く。
聞こえないおかえりになんだか少し不安を覚え、上手く脱げない靴に苛立つ。
帰るのが遅くなってしまった。
帰ってきたことをアピールする様に、
音が出るくらいの勢いでクローゼットの前に荷物を置いた。
まぁ、いつもの事か。
そう思いベランダの方に目を向ける。
案の定、網戸の向こう側には煙を纏いながら同じ画面を眺め続ける彼がいた。
煙草の火が点滅する度に彼はふうっと深く煙を吐いた。
私が話しかけるまできっと彼は、私が帰ってきたことに気付かないフリをする。
私のただいまの声も多分聞こえていたんだろう。
ベランダの方に近づき今度は機嫌を取るように
貴方の元に帰ってきたよ
という気持ちを込めてただいまと言う。
すると彼は気付かないフリに私が気付いてるとも知らず、不貞腐れた声で言った。
『おかえり』
生温い風が目元らへんまである彼の前髪を揺らす。
彼は素っ気なく私をスルーして洗面所に行き、毛先がボサボサになった歯ブラシを手に取り歯磨き粉を大目につけ、口に突っ込んだ。
その間に私はお風呂に入った。
...
お風呂から上がると、既に彼はベッドの上で横になり、また同じ画面を見続けている。
少しだけ暑いのか中途半端に布団がはだけている。
時計の針はもう十二を指していた。
歯を磨き、髪を乾かした私はそっぽ向く彼の隣にゴロンと横になる。
ちょっと前までは髪乾かしてくれてたのに、
最近ちっとも無いな。
ちょっとした不満というか我儘が頭を過ぎる。
彼は携帯を置き、寝始めた。
私は聞こえるか聞こえないかの小さな声で
『ごめん』
と呟いたが聞こえてはなさそうだった。
彼が寝返りを打ち、寝息が私の鼻を擽る。
心の中で帰りが遅くなってしまったことを謝りながらも言葉には出せず私はキスをした。彼もまた何も言わずキスをしてくれた。
歯磨き粉と煙草の匂いが混ざってよく分からない味がした。
どうせ明日になれば彼の機嫌も治ってるだろう。
そう思って彼の髪に顔を埋めて私は眠りについた。
...
本音を言えば私は煙草が嫌いで、匂うし、お金がかかるし、吸いたいとも思わなかった。
煙草なんてただの格好つけがするものだと思っていた。
けれど彼が煙と共に言うおかえりも、
喉に染みるようなあの匂いも、
どうにも私は嫌いになれなかった。
付き合い始めてからずっと
『煙草なんて辞めなよ』
言い続けてはいるものの、彼は毎回何かしらの理由をつけて辞めることはなかった。
いつだったか
『結婚したら辞めるよ』
と半分笑いながら言われた時は、
煙草を辞めるその未来に私は居るのかどうか聞きたくなった。
私は喉を鳴らしてその文章を飲み込んだ。
...
彼がいる生活に慣れた頃、不安と不満を感じていたのは私だけじゃなかった事に気付く。
そして生活の中のそれは少しずつ私達の間に積もっていった。
自分を棚に上げ、慢心していた。
言葉にしないと伝わらない事、
煙で吐き出し切れない何か、
互いを理解することができればきっと、
君が煙草を辞めた未来に居られるのかもしれない。
8mg / Lym
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