猫を棄てるを読んで〜父について思い出すことなど


村上さんの新作、『猫を棄てるー父親について語るときー』を読んだ。
時代のうねりに翻弄されていく男性、つまり筆者の父御を、息子の目線から、また小説家の目線から、一つのサンプルのように静謐に、また絡まった糸を解くように、描いているように思った。

戦争入隊に際しての精密な調査は舌を巻くものだった。また時折現れるお父上の俳句も父親として懸命に生きた日々を思い起こさせ、胸にくっと迫って来た。

私の父は戦争へ行かなかったし(まだ5つだった)、ここへ引けるような詩も残さなかったけれど、遺していった思い出を書き留めるべく筆を取った。

わが父の残したもの、そして私が受け取ったもの。それは一見別々のものに見えたけれど、実は同じものだった。


父は多趣味だった。

写真・レコード・楽器演奏(ギターにトランペット。マンドリン、ヴァイオリン、電子ピアノまで)・旅行・インターネット...

私が付き合ったのが、レコードと、インターネットくらいか。(いや、音楽も旅行も写真もまた好きである。)

楽しそうな「団欒の家庭」が浮かんでくるかもしれないが、実はそこまでのものではなかった。父は戦中生生まれの昔気質で、一介のサラリーマンだったが、今でも思い出すと肝がすっと冷えるほどの、とても怖く厳格な人物だった。

若い時は優しかった。小学生の時、妹と枕を並べて寝ていると、帰宅した父が一日分の伸びた髭をざりざりと額や頬にこすりつけ、妹を起こして、母にたしなめられていた。細く目を開けると、両親の笑顔が見えた。

父の新しいカメラが店に入ったというので、雪降る中に一緒について行った記憶がある。カメラはまだ入っていなかった。雪の中歩いた足や濡れた靴下が冷たく大泣きした私に、店の人は「子供用のカメラを見に来たのだ」と勘違いし、アメをくれた。父が照れたように頭を掻きながら訂正した。駅前まで戻ると、お詫びに、と父はホットミルクを御馳走してくれた。嬉しくて飲んで、舌を火傷し、また私はちょっと泣いた。ここでも父は照れたように笑っていた。

中・高生になると、ビートルズやサイモン&ガーファンクルやピーター・ポール&マリーやカーペンターズやなんかのレコードを引っ張り出しては、盤面に聞き惚れた。習いたての英語を駆使し必死にぶつぶつと歌う。もちろん父の黒いイヤーマフみたいな大きなイヤホンを付けた。私の英語力の礎は6〜70年代のロック&フォークソングから来ている。もちろん完全に耳で聞いたものを歌う。譜面なし、歌詞のみ。なぜなら足取りがばれないためだ。証拠品(楽譜やらメモやら)が多いと捕まってしまう。このようにこっそりと聞いていたはずが、元来のものぐさゆえ、レコードの戻し方が悪く、父に気付かれてしまう。怒られ、ゲームセット。どのレコードもかなり聴き込み、深く堪能した後だったので、レコードを卒業した。母だけが笑っていた。

父は歳を重ねるごとにどんどんと陰気に、また塞ぎがちになっていった。旅行は行かなくなった。だが趣味は手放さなかった。会社を定年退職した。母にぐちぐちとしつこく文句だけはいう。あとはテレビを見ながらマンドリンをつまびいていた。酒の量が増えた。昼から飲むのは平日もだった。コミュニケーションを取ろうにも、いつも喧嘩腰で終わった。こんな日がいつまで続くのかと途方に暮れた。

ある日、自宅の廊下ですれ違った。電気もつけない暗い廊下の暗がりに、父の影が色濃く見えた。死の影を見たのは私だけだった。

医者嫌いだった父の膵臓は癌で侵され、手術もままならなかった。

痩せ細っていく父。病室に新聞を届けたら、「ありがとう」の声がした。何年ぶりに聞く言葉か、と驚き、また嬉しかった反面、最期が近づく足音なのだと思い心が沈んだ。母も、「パパ、最近『ありがとう』とよく言うのよ」と嬉しそうに、また半ば悲しそうに微笑んでいた。

会社に向かう電車の中で携帯が鳴る。母からだ。「ねえ、来て」とだけ言って電話を切ろうとする。制止しても「うん、それだけ」と言い、切ってしまった。

病室に着き、泣き暮れる弟と呆然としている母を見る。「ねえ、パパは?」と愚問を呈しても、返事がない。そんなもの推して知るべしだったのだけれども。

母に聞くと、今際の際に、呼吸器をつけていた父の手は、その母の手を探し求め、きゅう、と握り、逝ったのだ、という。

私が一人で、長く探し彷徨った、本当の愛みたいなものは、嘘偽りなくこの家にあったのだ、と気付いた。

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父の葬式にはビートルズのベストアルバムを延々とかけた。もちろん私が忍んで聞き入ったあの円盤だ。まさかレコードではかけられなかったので、CDに焼いて葬儀者に手渡した。(ジャケットスリーブを見ながらiPhoneでプレイリストを組んだ、完全デジタルリマスター音源だったが。)また、父の焼いた家族写真をアルバムで回し見ながら送るという、例のない葬儀だった。

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煙になって流れていく父を見たとき、(この愛を繋いで行こう)と私は心のどこかで決めていた。
父のあの家で、私は、確かに愛というものの片鱗を、それと気づかずに、繰り返し目撃していたのだから。

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いま階上の、時折漏れる寝言や寝具の音を聞きながら朝焼けを迎えている。

父に花嫁姿を見せることは叶わなかった。

ただ、素朴ながらも、愛のある庭がここにはあると思っている。

父母の庭よりは小さく、また可愛らしい子供たちの声もまだ聞こえていない。でも、家の大きさや子供の数なんかで数えられないものがここにはあるのだ。

階上のざりざりした髭が、愛おしいくらいには。

父が死んだ年の翌年に、長く友人だった男性と付き合い始めた。
その翌年(去年だ)には一緒に暮らし始め、夏に入籍をした。

父の墓に、その彼と結婚の報告に行った。
いつものように晴天だが風の強い日だった。
だが日だまりが温かく私たちを出迎えた。
姿や形は冷たい石に変わっても、父は、相変わらず優しかった。

墓の掃除をし花を備える。香を炊く。
こみ上げるものが多過ぎて、居られなくなってしまい急ぎ足で墓をあとにした。

何分も居たわけではない。加えてこのエピソードも語っていない。
駅に向かう途中、彼は「優しいお父さんだったんだね」とだけ言った。
(彼にも伝わったのだ)と思う。今思い出してもこみ上げるものがある。そして、この人だったんだなあ、という思いは今も募っていく。父、そして母からも受け取った愛や、優しさを、日々受け継いでいこうと思う。


#猫を棄てる感想文

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