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禅の響 - ZEN no OTO-

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「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   …
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#生き方

「禅の響 -ZEN no OTO- | 有時 」365日✖️生きている歳だけ

日々は繰り返される。 時が制約され命を渡された時から、それは始まる。 どうすれば、この理から抜け出せるのか。 この苦しみは輪廻として続くのか。 しかし、その小さな枠組みの理もまた、小さな有時でしかなく、 また大きな有時が永遠に続くだけのことである。  眠りにつく時、いつも時間の概念がなくなる瞬間を怖く思う。本当は知っている。無意識として繋がる事が、命の役目である事を。それを身体が真っ向から拒否するのだ。  朝、目覚めた時、この時間という制約にいる事に心地よさを感

「禅の響 -ZEN no OTO- | 越後三谷 」矛盾を愛せよ

心に響く、言葉、音、感覚。 そうしたものは、遠くに響く鐘や琵琶の音色のようだ。 富士を毎日のように見る時、晴れやかであり、曇りであり、嵐である。 その一つ一つも、また心に響く。 大きく偉大なものでさえ、多くの矛盾をもつ。 その矛盾は美しい。 私達が知る多くの矛盾を知る事は、この世界の理に等しい。  一つの心を知ろうとする時、良い一面だけを見ようとするのは、人の習性なのだろうか。それとも現代人の習性なのだろうか。  その人を知ろうとした時、臆病になる事や、虚勢を

「禅の響 -ZEN no OTO- | 真蹟 」音という筆跡

送り出す 心預けた人 この世で一番、尊敬をした人 全てを知っている人 心は波打つ  11歳の頃、尺八を初めて教わった先生が亡くなられた。子供の頃の自分、青年の頃の自分、成人し社会に出る自分。尺八を通して色々と教わった。  あの頃は、正座も慣れておらず、稽古に行くだけで苦痛の日々だった。正直、音に惚れていた私は、尺八の古典の面白さもわからず、さぞ先生は苦労されただろうと思う。このような不甲斐ない弟子を誇りに思ってくださっていた事、また何も恩を返す事ができないまま、お

「禅の響 -ZEN no OTO- | 鑁字 」道理なんてクソ喰らえ!

自分を納める。 その器を自分で作る 作る手には年月がかかる。 納まるにも時間がかかる。 道理は器に納まる事でわかる。 納まりきらない矛盾と共に。  鑁字(ばんじ)という曲を吹禅するにあたり、この曲は本当にお経のようだと思いました。集中して吹くと、それはもう、どこにいるのかわからなくなるくらいでした。まさに「空」の状態です。曲を勉強するにあたり、もう芸術であるのかないのか、こだわりもなくなり、一つの壁を超えた気分になりました。より深い自然の音への習得。  そうした

「禅の響 -ZEN no OTO- | 息観 」2万7000回の呼吸

息をみて 息をみて その人をみて 自分をみて 姿をみる  人間が1日どのくらいの呼吸をしていると思いますか。だいたい2万7000回だそうです。では皆さんは2万7000回のうち、どれだけ呼吸を大切にしていますか。実際には無意識に行われていますから、とても難しいでしょう。  僕は尺八を教える時、尺八を長い時間練習するよりも、日々の生活を丁寧にした方が上手になると伝えています。それには理由があります。その前に、皆さんは何か大切にしているものはありますか。物でも人でも言葉