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禅の響 - ZEN no OTO-

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「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   …
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2021年4月の記事一覧

「禅の響 -ZEN no OTO- | 三谷清攬」のらりくらり

自然を制覇したと酔いしれる人間よ。 それが、どれだけ浅はかな行為か知っているであろうか。 自分に喜びを与えるのではなく、 他人に喜びを与えるのではなく、 自然に喜びを与えよ。 もっと感謝せよ。 そうすれば、繰り返される些細な四季の変化だけであっても、心は十分である。 多くを求めず、じっくりと生きよ。 大切なものは、いつも手の届く範囲にあるものだ。  ここのところ、本当に強く、こうした思いを感じます。例えば、花を飾るとき、大抵の人は花屋で買ったり、咲いている花を切るで

「禅の響 -ZEN no OTO- | 心月」のらりくらり

「心月孤円 光呑万象」 心とは何か。 万象とは何か。 この世に明確なものなど一つも存在しない。 もし在ると言い切れるのであれば、それは人の傲慢さに他ならない。 生きとし生けるものは何の理由もなく、存在しているのだから。 そして常に複雑なものである。 安易にわかりやすくする事は、私にとっては、まだまだ、とても烏滸がましい行為である。    心というのは本当に不思議で、一つ境界線を作ると明確になるのに、真実が失われていくように感じます。両親への気持ちや、恋人、友人への気持ち

「禅の響 -ZEN no OTO- | 霧海篪」佇む心

私は大海原で濃霧に呑まれ、一寸先は何も見えない状態である。 波に身を委ね、無心で尺八を吹く。 海鳥のように、または生まれたての赤子のように。 浜辺にいる者は、そうした得体の知れない音に聴こえたかも知れない。 意図とは常に自身の思惑とは異なり、他者の心に反映されるものである。 そして、そうした偶然的必然が、“それ”を呼び起こさせる。  人生で何度、濃霧に包まれるような経験をしただろうか。私は失敗を恐れない傾向があるので、大抵、濃霧の中を漂っている。失敗から学び180度、生き

「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚霊」時間と繋がりの大切さ

心は空虚な身体から放たれるのか。 はたまた魂というものから放たれるのか。 少なからず“それ”は私の身体を通過して、空虚な心も通過して、空に音を漂わせる。 無為の心は、静かに流れる。 遥かに深層の“それ”は一人の心で出来ているものではない。 生死の積み重ねの溝にできた幾十もの欠片で成形された“それ”は、 他者の心と身体をも通過して繋がりを求める。 この現世での心の縁のもとに。  吹禅を極限に集中している時、身体という概念がなくなり解放される事があります。いつもそうした感

「禅の響 -ZEN no OTO- | Prologue」漂うというはじまり

いつものはじまり  今回は「漂う」というテーマでvol.2を吹禅しました。通常の演奏ではフレーズであったり、音を空間に飛ばすような、響かせるような事を意識していますが、今回は、届けるのでなく、空間に音を漂わせて捉えてもらうようなイメージで吹禅しています。遠くで音が響いているような、霧の中で見えない何かが鳴いているような。  毎回するであろう、Prologue とEpilogue。同じ楽器を使って即興をしています。通常の尺八は指穴が5つありますが、この超長管は穴が一つしかあ