見出し画像

進む


プライド月間ですね。思い切って自分の内面をプロフィールに書いたくせに、近い感覚の方々に関係することを何にも書いてないですよね。わかってるんです。色々なニュースを目にしたり、周りの人が同性婚裁判や多様性の話題を話すのを聞いて、考え方のあまりの違いに興味をもって対話する気も起こらず、逆にかなり疲れてしまってます。

世の中は生まれた時からの性別、男女どちらかだけで、自分が正しいと思い込んでる恋愛感、結婚感以外ありえない、法律で認められないのは当然でしょ、と、悪気なく言い放つ人がまわりにたくさんいて、現状を伝えても、そんなの特別な人だけで無い無い無いと切り捨てられて会話終了。

男女は好きになった人と結婚して子育てするもの。この考えを、親、近くにいる大人、同級生、宗教、映画、ドラマ、小説、漫画、アニメ、自己啓発本などなどから得て、いつの間にか常識、正しい生き方として信じきって、違う感覚の人の話を知ったとしても、特殊な人として理解を示しつつ自分とは別世界の話で終わらせて、隣に住んでるとは思わない人の多いこと(私のまわりの話に限ります)


だから尚更、数は少なくても違う感覚もあるよと声を上げ続けていくことは大事で、あり得ないとか法律で認めないとか言われてぶつかりながらも、何も議論しないよりかはマシだと思ってます。

LGBTQIA+の中でも、それぞれ違いがあって、一緒のイベントでお互いにモヤモヤしたり、セクシュアリティやジェンダーのテーマということは関係なく人の数だけ人間関係の問題は尽きないのかなと考えるようになりました。

いろんな人が当たり前にいるよ、というだけだと思うんですが…。権利取得さえも難しい状況を見てると、まだまだ時間はかかりそうだなと思います。

自分の感覚、というのも、何歳になっても、毎日過ごしていくうちに、何かが起きるたびに内省して新しい感覚に気がついて、新しい分類名を探して、を繰り返してます。

感覚のことを考えるうちに、漠然と、生きていく中で感じる愛って何なの?と調べるのがクセになってます。

妙なことを書くのでこの人何か気持ち悪いこと書いてるな〜と思われたら読むのやめて、フォローもはずしてくださいね。

自己紹介で、私はアロマンティックアセクシャルと書いてますが、この言葉も広い意味であり、この意味の中でも細かく分かれた感覚に名前があって、私はデミロマンティックデミセクシャルだなと最近気がつきました。

どうも私の感覚は、妙に不思議な縁のようなものを感じるごくわずかな人にだけ、先に人間愛のような感覚がおきて、その後にほんの少し恋のような感覚(これも自分の内面なので他の人と違うような気がする)が起こってるような気がします。だから、ほとんどの人にしてみれば、私のリアクションは友達や知り合いレベルにしか感じられず、誤解されてばかりきたのかも。リアクション薄いけど、好意を向けてもらえてめちゃくちゃ嬉しいんですよ。

この前、『HUG』とタイトルをつけた詩を書いたのは、私の感覚でどこまで人どおしの愛情や性愛、官能のような雰囲気が出る言葉を並べられるんだろうとずっと考えてきたことから、作ってみて載せました。どんな風に伝わるかは読まれた方の自由な受け取り方なので、こう読んでほしいとは思ってないです。ただ、自分なりに色んな言葉を並べてみて、心の中の気持ちをどこまで出していけるか、出してみて自分でどう思うか、そのようなことを繰り返して今まで気がついてなかった感覚を見つけるのも面白いなと思って作ってます。

愛って、単語で説明できたとしても、そこに含まれる想いや答えは一つじゃないように思います。お互いを大切に想って通じあう気持ちは、その当事者にしかわからない。相手が人じゃない場合もあるかも。他の人が自分の思い込みだけで誰かの関係性の善悪を決めるものじゃない。

気持ちが通じる人と一緒に生きていきたい、とか、社会的立場を得るために選んだ人と家庭を作る、とか、一人で生きていきたい、とか、その人それぞれの生き方をお互いに干渉し過ぎないで共存していける街って、どこかにあるのかな。

年齢を重ねていくほど、いろんな人、関係性があるのを知る機会が増えてますが、同時に世間の目の許容範囲もビシビシ感じるようになってきてます。いろんな人いてるってだけやんって言って、そうやんなって返される時は、いつか来るんでしょうか。