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コラージュ【エッセイ】

自宅では甘えん坊でイヤイヤ期の児、保育園の発表会では泣かずに演技をやり遂げた。
このようなひたすらに微笑ましいことに対しても、感情を複雑に交錯させてしまうのは僕の悪い癖である。
バカ親に徹する傍らで、自身のどこか冷ややかな目のことも大事に温めている。
僕が意識的に「僕の児」や「うちの児」という言葉を避けているのは、現時点では正解だと思っている。
親と子は地下の根でキツく繋がっているが故、地上ではあまり強く繋がるべきではない。
それは養育や愛情を与える与えないとはまったく別次元の話だ。
父殺しとかいう定型物語は、もはや大した意味をなさないし、大して面白くもないと思う。
現代人は忙しいのだ、父を殺している暇も、子に殺されている暇もない。
個々の人生は多様性と複雑性によりより断片化していき、物語を失うが、その代わりに詩を得る。文脈よりも大事な飛躍を得る。
膨大なコラージュアートの素材の中で、僕の肖像は父にも母になりきらずに埋もれる。

それにしても世の中は面白いことの溢れていることよ。
それは仕事の無色な時間や、育児の原色の時間が増えれば増えるほどに感じられるものである。
耽美小説に描かれる墓園の、瑞々しい比喩こそが、生きたいと願う私たち(私と私と私)を生かしてくれる。苛烈な時空をそよ風でなだめるのだ。
サンスクリット語をまた学び直したい。古代の風にまた触れたい。
学者でもなんでもない僕にとって、生活に無意味と思われるもののコラージュこそが、僕の生きた証なのだ。
そして死後の世界を前に、生の証をビリビリに破いて、また新しい素材にしてやろうと目論んでいる。
野心が漲るのが、無味の世界に生きているが故なのならば、もう少し生きてやってもいい気になってくる。
繰り返す、世の中は面白いことで溢れている。
根など張らず、張らせず、人と人と人がそれぞれ面白いことを見つけに行って、土産話を持ち寄ろうじゃないか。

コラージュでコラージュしよう、一緒に。

#エッセイ

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