見出し画像

対話は大体一方的な殴打

 「対話で分かり合う」とよく聞くが、もし共通の「対話ルール」なるものがあってそれを元に対話を進めて分かり合いを目指して分かり合えるかといったら、大抵分かり合えないと思う。原則的には決裂が決定的になり、最悪深い憎悪と禍根を残して終了では。


 何故そんな暗い事を言うかといえば、個々人別々の人間なのに話し合うほどに分かり合えると考える方が無茶苦茶だと私は思うから。話し合うほどに差異が明らかになり、乗り越えられない壁の出現を感じ、自分にとって絶対に譲れないものが何なのか明確になっていく。それが対話ではないか。そして、何が乗り越えられない事なのか明らかになるのが大事なのだと思う。分かり合えないとわかるから相手を尊重する。そうしてお互い決定的な決裂や憎悪に至らないように、「わかった、そこは配慮しよう」という妥協点を見つける。
 抽象的な話になるがそのあたりが、お互いに公平な結末ではなかろうか。

 というのは、堂々と「対話しよう」と相手に言う人ほど大体強者の側で、相手を折伏する気満々だから。だから「対話」を手段にしようとしてるだけだ。対話ではない。それは「バカを啓蒙してやる」という上からの威圧だもの。あるいは弱者を取り込もうという。必勝手段だから用いてるだけだよ。物理的暴力ではないという意味で平和的解決ではあるが、圧倒的に強者に有利なスタイルだよ。何を言っているのかとうんざりする。
 結局は勝った側の主張に負けた側が飲み込まれて勝者と敗者の「妥協点」なるものが生まれる。「妥協」と言いつつ、より多く諦めるのは負けた側で、勝った側には「完全勝利ではないが」程度。

 ただ、結構多くの人が(そしてそういう人は大抵なめられている弱者の側)このような「対話」を望んでいるのもわかる。適当に言いくるめられなんとなく自分の欲求は不当なものだと感じるようになり、立派そうに見え、理路整然と喋る相手の言い分が正しいと感じて折れる。至るのは「私は愚かなのだから、さからう資格はない」という全然関係ない理由での妥協。
 対話が成り立たないのも困る事だが、対話の末に相手を折伏する事を目的にしたものを対話だと言いたがる人が大変多いのも困ったものだよ。「何が分かり合えないのかわかった」の末の配慮のし合いも窮屈なものだから(他人を愛するとは、お互いに相手を侵害する自己の欲求に自制を掛け合う事です)、その窮屈さを望まず、弱い人にもっともらしい理由で我慢してもらって少しでも強い立場が楽に振る舞える関係を望む人が多いのはわかる。いつ自分が弱い側になって我慢を押し付けられるか知れないけど、その時が来るまであまり自分がそうなるとは考えないものなのだよね。不思議だ。そして一方的な対話は、弱者にもお得な気楽さを約束してくれる。多少の施しも得られる。もっと弱い人が犠牲になって助けてくれるから大丈夫と言って安心させてくれる。そのように事を進めて、そして自分がそうなった時に弱者を助けてくれる人なんかいない。皆、ちょっとでも楽なように弱者を踏みつけて生きてきたんだ、そのまま弱者を黙らせて見ないふりをするよ。

 なんかかなり荒れてます。トップ画像だけが美しい。

 

サポートをクリックしていただくことで、投げ銭をいただくことが出来ます。いただいた寄付金は今後の運営費として活用させていただきます。