謙虚と卑屈の区別がつかない


自信を持つ根拠がないとつらいけど仕方ない


 大学は出たものの、そこはとある就職情報によれば一般に大卒に期待される学力を満たしていないとみなされる、低偏差値の学校である。驚くほど勉強をしなかったので当然の帰結なのだが、今思えば、私には毎日机に向かって何時間も難問に挑むという苦行が耐え難かった。自分がわからない事ばかりの問題集に取り組むのが苦痛だった。それこそ劣等感で潰れてしまう。具体的に書くが早慶レベル以上の卒業生と話していると、彼らがいかに知らない事に果敢に取り組み克服するのが「当然」なのか知って、大学卒業後に驚いた。彼らは難問の克服に慣れている。
 例えば、私がExcelの使い方を勉強していたとする。その事をふと話題に出す。そして、私がExcelの勉強をしている姿を見掛けると、早慶卒以上の方はごく自然に「どう? 完璧?」と聞いて来る。私はこの言葉にたいへん驚いた。私の人生になにかを「完璧に仕上げる」という経験はほぼなかったのだ。それなのに、この人はごく当然のように「習得するということは完璧に出来るようになるという意味」と考えている。
 では、完璧に仕上げるのが当たり前の方々のために私の感覚を解説しよう。大体6割把握出来れば私はそれでいい。それが私の通常運転なのだ。それ以上は面倒くさいし時間を要するので手放す。それが私だ。そのような練習状況でピアノのレッスンに行くと、それはほぼ「弾けない」と同等なので先生にいたく怒られる。物事をそれで済ませて生きてきた私には、「達成」というのは自分の人生では遂げられない状態。「完璧」は起こり得ない。

 一方で、私は新しい事に手を出すのにそれほどの抵抗はない。そして6割までは比較的負担なく進められる。そういう意味で読み散らかしや手のつけ散らかしがおそらく多いほうなのだと思う。あまりきちんと比較した事はないが。そして6割しか出来ない事にも慣れている。9割以上出来る見込みがないと手を出したくないといった感覚とは無縁なので、飛び込む事だけは平気なのだ。
 そういう生き方をしていると、時々、私などより学力の優秀な方々より薄く薄く広く物を知っている事がある。それが若い頃の私を錯覚させていた。私には私で、優れたところがあるのだと。それはその分野に全く関心のない人に比べればあるだろう。また、私がいた低学歴の環境には、私が興味を持つものに興味を持っている人などほぼいなかった。これは孤独かつ一人勝ちに思える井戸だ。
 そんな私は大学生の頃のある日、あるかなり年上の男性に怒られた。
「その薄っぺらい知識と知力で、私頭いいでしょう? と言いたいの?」
 今思い出しても嫌な男だが、私はこの言葉が堪えた。この男は私のWEB日記を読んで、私のウエメセな物の書き方が勘に障ったらしい。この男の勘に障ったのは、まさに私が他人に対してウエメセな書き方をする理由のひとつだったから、恥じ入らない訳にはいかなかった。私程度では、他人にとって知識も知力もないのだとよくわかったからだ。
 そういう他人の目線を私に突きつけた事はこの人の有意義な行動だろう。
 ただ、この人は「きみは思い上がっている」という事を言い続け、ある人物をあげて「謙虚な振る舞い」と指していたのだが私にはその人物が何故謙虚なのか全くわからなかった。目下を好きにこき使うかなり傲慢な人物に見えたからだ。そしてこう言ってはなんだが、この時に指摘された事を素直に受け入れ、以後、ものの書き方を改める事に努めた私は謙虚だったのではないだろうか。私には謙虚とは何なのか全くわからなくなった。
 この指摘をした事を「嫌な男」と私が言うのは、彼は私のその後の行動を一切認める事がなかったからだ。これではただ他人の愚かな振る舞いをもって相手を劣った存在とみなし、そこから出る事を許さない圧力を掛けるだけの人ではないか。彼は私にレッテル貼りをして、そして私を変化することのない劣った存在だと言い続けた。
 私は卑屈になっていった。私は私で、そういう形でも、私に関心を持ち、構ってれる人の事が嬉しかった。そしてそれこそ愚かな事に、他人にこれだけ指摘する人は、それなりに立派な人間である自負があるから他人に指南が出来ると思っていた。


他人に指南する人は、したいからするのであって、指南する資格があるからやるのではない。

 ここで話を挟む。実はこの嫌な男には、私と同じように振る舞いの良からぬところを指摘され、物事をああしろこうしろと指南されていた若い女性が他にもいたのだ。彼女は私と性格が似ていて、やはり、この男は他人に物言う資格があるから言っている、と素直に受け止めていた。
 まさか世の中に、自分にそれをいうだけの根拠がないのに他人に偉そうに物言う人がいると思っていなかった。そんな自分の薄っぺらさを克服していない人が、何故堂々と出来るのか。内省というものがないのだろうか。人は失敗したら自己嫌悪に陥って、自分の欠点を見つめるものではないのだろうか。
 今だから言える。前の日記でも「年下の女の能力を低くみなして物を言ってくる年上の男」の話を出したが、男性の中には女性をそもそも男性より劣った存在だととらえ、女である事を根拠に「あなたの能力は低い」「あなたは頭が悪い」と決めつけて話をして来るタイプがいる。私は年下の男性でこういう事を言ってくる人には今の所会った事はないが、年齢が目安になるかはわからない。私は弟を持つ姉で、年下の男性にいくらか威圧的な振る舞いをしがちだから、嫌われて寄って来られないだけかも知れない。
 ちなみに何故こう我々が年上の男性の言葉に異様に従順だったかというと、年上の男性をそういう存在だと思い込まされて来たからだと思う。その世間のイメージに対して素直に受け止めていたからだ。これを疑う女は嫌われて叩かれるので、そうなってはいけないと思い込んで生きて来ていたと思う。


そして私は卑屈になる


 私にそれだけの指摘の出来る「立派な人物(=指摘する根拠、と、私が考えていた事)」が私を認めてくれない。これはとても苦しい事だった。何をやっても認めてくれない人の近くにいると、何をやっても私は駄目だと思うようになる。
 私は振る舞いさえも傲慢だから、よくない。もっとおとなしく、もっと自分を低くして。
 それは地面にめり込むほどだった。
 大学を卒業して社会人になってから、「もっと自信を持ちなさいよ」と周囲の人からたびたび言われた。私はそのたびに混乱を来した。何故傲慢な私が自信を持てるというのか。自信とは? 謙虚とは? 傲慢とは?
 自信など持ってはいけないのではないか。何故ならそれは傲慢な事だから。
 自信はどうすれば持てるの? 何が自信を持つ資格なの?
 若い人はよく根拠のない自信を持つと言われるけど、私のはそれにならないの?
 しかしこのような問いに答えてくれる人は「嫌な男」しかいないのだった。


自信を持つとは


 モラハラ──とはマッチポンプの要素を持つ。自分で相手をそのような人物になるように仕向けておいて、「お前は駄目な人間だ」と相手を責める。無限に相手の落ち度を責め続けられる。
 「嫌な男」は、「お前は卑屈なところが駄目だ」と言い出した。
 卑屈に決まってるだろ、あんたが私にそうなるよう仕向けて来たのだから。
 私と込み入った話をしてくれるのは「嫌な男」だけだったが、その間に世間という集合体が私に接してくる時の様子から、「嫌な男」の私の見方のほうがおかしい、と、私も気付いてはいた。それなのに嫌な男がそれを認めないのが私には心底不思議だったが、世の中にはこういう男性がいるという話なのだ。自分の落ち度を絶対に認めない謝ったら死ぬ人たちが。他人が落ち度を認めないととことん罵声を浴びせて軽蔑するが、自分が謝らない事は許されると考えている。理不尽な人間だ。例外的に許される人がいてそれが許されるなら、人間には何らかの差異を認めろという事になるのでは。しかも義に反する振る舞いで。
 そのような愚かな時間の浪費を経て、この失敗をもう繰り返したくないと懲りに懲りた私は、誰かに認めてもらうことで自信を持とうという発想からようやく脱却した。
 ヒントは「どう? 完璧?」である。
 出来なかった事の克服。これは他人の指標はそれほど必要ない。表計算ソフトは正しい関数を入力出来れば作動する。それが完璧ということ。それが達成の証。そして、自分に出来ることは表計算ソフトに自分の意図した通りの関数の入力が出来るということであり、それは特に頭が良いという指標ではなく、ただ単に私は勉強し、そして途中で投げ出さずに出来るようになった、という事である。それ以上でもそれ以下でもない、しかし自分でも理解出来る自分が克服して出来るようになった事、という成功体験。これをちょいちょい積む事が私の卑屈脱却の訓練であった。
 まあ「これが出来ても」と思ってしまったりもするけど。ともかく地道に、である。小さな事を重んじて大切に日々やり通して大成した小さき花──聖テレーズのように。


 


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