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ドラマ劔 その8 シネとレンズの日々

 ぼくは死なない、死ぬのはいやだ、と息子は主張する。それは、正論と思うが、暴論でもある。
 人生は、思えば、青春との出会いと別れを何度も経験するものであり、過ぎ去ってから、それが青春だったと分かるもののようだ。死んでいるようで、未だ死んではいない。
 その渦中にあっては、青春とはとても思えないが。

 朴信惠(Pak Sin-hye パク・シネ)に嵌った。
 なぜだろう、ダルポのイ・ジョンソクも爽やかな色気が際立っているが、なぜか、「ピノキオ(2014年~15年)」のイネ、彼女を見ていると、胸が苦しくなる。
 ドラマ自体は、通俗系の王道を行くもので、テレビ報道(被害)をネタに、恋愛を縦糸、家族愛を横糸にして、愛憎・欺瞞・欲望と倫理・正義・真実との鬩ぎ合いを、新人記者の成長を通して描く。
 エンタメでは、報道の根幹を成す(べき)政治権力に対するツッコミ(監視、批判)は難しいのだろう、市井の事件・事故でお茶を濁す。
 ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びるらしいが、政治家は平然と嘘をつけないと鼻を折られるものらしいから、報道記者は余程心して取材に当たってほしいものだ。それが、第三乃至第四の権力を持った者の矜恃であり、使命でもあるから。

 次いで、「美男子(イケメン)ですね」ドタバタをやらせても、上品さを失わず、かつ誠実な佇まい、誠に信に恵まれた人となり、その演技に無理、無駄はない。
 「ドクターズ」彼女は清楚さ、可憐さと剛直さ、清廉さ、凄艶なまでに、妖艶さと清純さをあわせ持ち始めた。
 胸苦しい、ここまで来ると遙々感とない交ぜに、哀歓、情緒不安定、一球入魂、やがて憤怒の形相か、誰しも、近づけないものを間近に見せつけられ続けるほど苦しいことはない。
 思えば、遠く来たものだ。
 ICT、SNS、GAFA?に何の罪もない。されど、誰か、罰するに如くなし。
 これは、青春の甘い罰、切ない罪のおこぼれなのか。

 「相続者たち シーズン1」 韓国社会は超の付く学歴偏重社会(科挙の影響だろうか)と言われるが、このドラマなどを見ると、金持ち、資産家、財閥が貧乏人、労働者、市民を(人前でも)平然と見下し、それをある程度許容する空気が濃厚な社会であるような印象を受けた。
 歴史的に見て、両班(支配階級)と庶民(被支配者)との隔絶、懸隔の甚だしさが未だに尾を引いているのだろうか。
 李朝物のドラマを見ても、儒教の教えが染みつき過ぎたのか、長幼の序、先輩後輩、男尊女卑、富貴貧賤、その異同を厳しく修める秩序観が、人々の生活を雁字搦めにしているようにも見える。息苦しい。
 会社で「先輩」、「お嬢さん」、これらの呼びかけは、日本では禁句に近づいている。
 それにしても、どこかで見た光景ではないか。
 不意に鏡に反転して映った自分の姿に驚く、あの筑波山麓合唱団の四六の蝦蟇のように、嫌な汗がじんわり出てくる。

 大国に隣接する小国の苦難、その歴史は、苦悩と忍従に満ちている。
 それでも、民主化以後、飛躍的な発展を遂げ、韓流ブームを巻き起こし、世界にそのコンテンツを提供し続ける。
 どこか、不屈の魂、恨(ハン)が宿っている、そんな気がしないでもない。

 彼女の出演したドラマは、アベマ・ビデオでほとんど見た、無料分だけだが。時間と経費のロスを最小限にする関係で。
 なぜ、パク・シネなのか。
 おそらく、それは、シネにある。
 彼女は、シネマであり、わたしにとって、永遠のKino Plasmat(キノ・プラズマート 1922年 フーゴ・マイヤー製、魔鏡と呼ばれるレンズのひとつ、Tessar を創造した天才Paul Rudolph が産み出したもうひとつの傑作レンズ。他に魔鏡と言えるのは、ペッツバール型のレンズ群だろうか。35mmフィルム標準レンズでは、A.W.Tronnier の名作Ultron 50mm f2 拡張ガウス型5群6枚構成 1950年 フォクトレンダー製)であるから。

 青春とは逃げ足の速いものである。追いかけても届きはしない。
 だが、思わぬ時に、思いがけない所で、鉢合わせになることもある。
 それは、人の生であれ、人を恋するときも、同じだ。

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