見出し画像

レンズ談義 その11 ヴァルネラビリテイ(写真論について)

 レンズ談義も今や収束点を通過しようとしている。
 ほんの蛇足ながら、ヴァルネラビリティ(S・ソンダク)について語るのも悪い話ではないだろう。
 ただし、あくまで、わたしの幻想めいた(幻想に依拠するかのような)物語であり、史実などとは一切重ならない。
 
 写真は、容赦なく世界を切り取る。
 世界とそれを構成する、いまそこに生きる自身を、生きられたものたちの残像として。
 その擬装された真実を写し取る。奪い、戦利品として画像を留置する。
 真実は、すべて未完で未生の、おそらくは、未刊のままの未消化な、ときに不都合で、不可解な現在地点の書写(のしぐさ)であり、記述に沈澱する試みである。
 心という仮定された継起を覗き見る、透明な光の迷宮を貫きながら。
 そして、ありもしない永遠という倒立した像(虚像)を可視化し、一瞬を擬態する、己自身の似姿へと。
 
 見る者と見られる者との相克、あらかじめ「既に見られた者」という薄暗闇の底なし沼から立ち現れて来る「見る者」という特権的な布置の視線、その規矩、配線、基盤、フレームが、より先鋭化する場としての写真
 
 鋭い切先で、抉り、切り取る。
 血も流さず、生きられた血をすべて抜き取り、凍結された簡潔な木乃伊に押し込める。
 
 逃れ去るものへの執着が、その所有、支配への揺るぎない欲望を形作り、尽きない、飽くなき欲求が光の航跡へと自らを走らせる。
 最も脚の早いもの、美。
 美しいものは、決してそこにはとどまらない。
 常に変化し、嘗ての面影は、忽ちに場外・圏外へと消え失せてしまう。
 そうした脱色・変色作用に対し、これに抗し、それらを記憶し、記録としての物体と名指されるものに定着させる、営々たる作業、それが、アート、芸術と呼び習わされる。
 現実からの圧倒的かつ一方的な剽窃であることを知らず知りながら、奪い、犯す、現実というフレームを自らに化態(再結晶化)するまで。
 不可分で再生産のできない、おそらくは反証不能な作品として流通することで、それは、一個の物象(物的現象性の結節・点)となり、やがて、そこから選ばれしものは、数多ある物神の一つとなる。


よろしければサポートをお願いします。