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ヤングケアラーであった自分#4 虐待の始まり

ほぼ1年、止まってしまった、虐待が始まった頃からの話を再開したいと思います。特に書くのが辛くて止まってしまったというよりは、その頃の記憶を引っ張り出すのにちょっと集中力が必要で、その集中力をかける時間が見つからないまま日々に忙殺されて書くのを忘れてました。

今日はたまたまCODAという映画を見ました。漁業を営む聾者の家族の中で唯一の聾者でない高校生の主人公がもがきながら成長していくお話。多分今年観た映画で一番良かったです(昨年の映画ですが)。彼女もヤングケアラーですね。家族の中で唯一聴力のある主人公は、常に聾者の家族と社会との間の通訳者にならざるを得ず、それがどんどんと自分の夢の足枷になっていってしまう、というストーリーです。自分自身の高校生の頃と体験が被り過ぎて、「あ、そういえばnoteの続き書かなきゃ」となったわけです。

私自身のヤングケアラーの話に辿り着く前に自分の生まれ育ちと虐待の話をしないと先に進めないのですが、このエッセイのテーマはあくまで「ヤングケアラー」です。虐待はただの序章に過ぎません。

小学校の1年生の秋頃、父とY田さん、のりちゃんと暮らし始めて3ヶ月ほど経過した頃から、Y田さんの私へのあたりはどんどんとキツくなってきました。そんなに悪いことをしたつもりもないのにやたら怒られたりとか。で、徐々にその頻度が上がってきました。帰宅が遅い父親は多分そのY田さんの変化に気づいていなかった気がします。

最初に叩かれたのは、いつどんなきっかけだったかも覚えていないのですが、その年の秋頃には週に1度とかの頻度で叩かれるようになり、そこからゆっくりと頻度を上げながら1年後の小学校2年生の秋〜冬ごろには毎日のように叩かれたり、真冬の夜に外に立たされたり、私だけおかずを減らされたりなど、その年度の終わりに同棲が解消される頃にはかなり深刻さを増していました。毎日のように「嘘つき」呼ばわりされ、Y田さんが家に友達を呼んでおしゃべりをしている時などは私の悪口を大声で話していました。のりちゃんは優しい時も多かったのですが、基本Y田さんの側にいます。一方的に怒られている私を黙って見ているだけでした。一度どこかに車で3人で出かけた帰り道、後部座席で寝てしまった私がうっすら目を覚ますと二人で私の悪口を言っていました。「鈍臭い」とか「嘘つき」とか。その頃の私はいつもY田さんの顔色を伺いながら過ごしていましたが彼女の怒りの着火ポイントが結構多岐に渡っていてさらに気まぐれだったため、気をつけていても結局何がしかでほぼ毎日叩かれていた気がします。

これくらいの歳の頃だと、大人に怒られた時、自分が悪いと思ってしまうんですよね。私もY田さんがいつも私に対して機嫌が悪いのは、何か私自身が良くないからなんだろうな、と漠然と思っていました。だからそもそも周囲に助けを求めるということすら思いつきませんでした。

でもこの虐待自体、あまり私の心に深い傷を残していない、というと意外でしょうか。私の場合加虐者があくまでただの父親の彼女であり、元々愛情関係のあった人ではなかったので(Y田さんは父との同棲以前からいつも冷たい感じの人でしたので)この経験自体がファンダメンタルに私の精神にダメージを与えなかったんですね。むしろこの経験が私にダメージを与えたのはそこから3年経ってある事実を知った時になります。

この家の中での不穏な空気はなんとなく周囲に伝わっていて、私が真冬の夜に外に立たされていた時などは近所の人が心配して家に上げてくれてお茶とお菓子を出してくれたりしました。でもこの頃は今と違い、虐待らしきものを感知したら然るべき機関に報告する、というような意識やシステムはなく、周囲の人もなんとなく不穏を感じるけれどもどうしていいかわからなかったようです。

私の2歳上の従姉妹は虐待のことを最近まで知らなかったのですが、その頃の私はチック症が出ていたと言います。今でもひどい肩こりに悩まされているのですが、私の肩こりはこの頃に始まりました。原因は明らかにストレスでしょうね。今思い返すと小学校2年生の時の担任も少し違和感を感じていたのか、長い休みの時などは他の子よりも少し多い頻度で連絡が来ていた気がします。

ただ一人、私を助けようとしてくれた人がいました。それは週に一回、ピアノを教えにきてくれていた米田先生という、保育園の頃からピアノを教えてくれていた初老の男性の先生です。週に一度、青い屋根と白い壁の家までレッスンに来てくれていたのですが、その時にY田さんが何度か同席したことがあり、確かレッスン中に一度彼女が私の首根っこを引っ掴んだことがあったんですよね。「ちゃんとした姿勢を取れ!」みたいなことを怒られたのかな、その時。その前後の文脈はあまり覚えていないのですが。で米田先生がそれをみてか、それ以前からの彼女の私に対する当たり方を見てなのか、祖父母に相談しに行ったそうなのです。ということを小学校5年生の時に、祖母と父から聞いたのです。祖父はもうその頃他界していました。

私の心のダメージはその事実を知った時の方が大きかった。

父とY田さんの同棲は結局1年9ヶ月で終わりを迎えます。明らかにどんどんと冷え込んでいく二人の関係は小学校2年生の私にも伝わるほどで、二人の関係が冷めるほど、Y田さんの私に対する当たりもキツくなっていました。とうとう同棲は解消されることになり、小学校2年生の終わりの春休み中に青い屋根と白い壁の家を引き払い、そこから徒歩3分の元々の自分の生家でもある祖父母の家に戻った私と父。その年の冬には祖父が胃がんで他界します。そこから私のヤングケアラーの日が始まるのですがそれは次の記事で書きたいと思います。

実家に戻り、数年たち、小学校5年生のある夜。夕食後に居間で父、祖母、私でテレビを見ていた時に、何かの話から「実はY田さんに毎日のように叩かれていた」ことを伝えました。私にとっては初めての告白で、当然そんなことを父も祖母も知らないという前提でいたわけです。が、父も祖母も「知ってた」というようなことを言ったんですよね。実は一度、ピアノの米田先生が祖父母を訪ねてきて、Y田さんが私に虐待もしくは虐待に準ずるようなことをしている可能性があることを伝えていたようなのです。

私としては「え、知っていたの?」という驚きよりも、「知っていたのに助けてくれなかったの?」の怒りと悲しみが大きくて。もう涙でいっぱいになってしまってそれ以上話せず、その話は私が26歳のとあるきっかけまで、議論されることはありませんでした。いま、自分に二人の子供がいて、親の立場になって、親の気持ちがわかって、だからこそどうしてもどうしても、父の心情はいまだに理解できずにいます。

どうして自分の子供が虐待されているという事実を知ってそれを見過ごすことができるのか。

その質問を26歳の時に父にぶつけたことがあります。彼は答えませんでした。多分もう私から彼にこの質問をすることはないし、私が父に対してキープしている人間対人間としての距離が短くなることはないでしょう。次回からやっと、ヤングケアラーの話になります。



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