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ヤングケアラーであった自分 #3 私に向けられた苛立ち

祖父母の家から徒歩3分の芝生の綺麗な一軒家に移った私は、学校の集団登校のグループが変わることになった。その当時は子供も多かったのもあり、「地域名」+「北」という集団登校グループに属していた私は「地域名」+「東」というグループに属することになった。「東」グループの方がスポーツが得意だったり性格が明るかったりする子が多いイメージで、なんだか誇らしかったのを覚えている。

のりちゃんはその時小学校6年生で、それまで通っていた名古屋市内の小学校もあと少しで卒業だということもあって、そのまま家から学校を変わることなく電車に乗って元の小学校に通っていた。

新しい家の向かいにも、二軒右隣にも同じ学年の子が住んでおり、近所の友人や学校の友達には「新しいお母さんとお姉ちゃん」と説明していたような気がする。母親ではない女性と、その小学生の娘と住む理由といえば、「新しいお母さんとお姉ちゃん」以外の説明が私には思いつかなかった。父とY田さんは結局最後まで入籍することはなかったのだが、その時の私にはあまりその辺の事情は説明されていなかった。

最初の2、3ヶ月はそれでもそれなりに平和に過ぎていった。なぜか私に課されるお手伝いの量が小学1年生がこなせる量としてはちょっと大変なのではという疑問と、Y田さんは基本的に私に対してはいつも笑顔を見せない以外は。

なぜか私はいつもY田さんに「お前は嘘つきだ」と言われていた。もしかしたら私にちょっとした虚言癖があったのかもしれない。ちょっと話を盛ってしまう、とかそんなものだったのだろうと思うのだが。でも彼女の癇に障ったのだろう。

Y田さんに限らずよくある話だろう。家庭の中でも職場の中でも。何かがうまくいかない不満や苛立ちが、とある特定の存在に向けて向けられることが。冷静になって考えると何もかもがそのただ一点の存在のみによって引き起こされるなんてことはないのだが。その当時の彼女にとっては私こそがさまざまな彼女の不幸をもたらした憎むべき存在だったのかもしれない。

こんなことがあった。週末の夕方に駅前の美容院にヘアカットに連れて行かれ、「じゃあお願いしますね、終わったら迎えに来るので電話をください」と言って自宅の電話番号を伝えてY田さんは帰っていった。しばらくして私のヘアカットが終わると美容院の方が電話して私のヘアカットが終わった旨を伝えてくれたのだが、Y田さんはいつまでも迎えには来なかった。美容院もお店を閉める時間になってしまい、美容師さんも困ってしまい、次は私が自分で電話をもう一度かけることになった。少しして迎えにきたY田さんは鬼のような形相で私の首の後ろを捻り潰すように掴むとそのまま力を緩めることもなく車まで無言で歩くのだった。

虐待とまで断定できないような虐待がしばらく続き、ある時、明らかにそれはくっきりと虐待になったのだった。秋が終わり冬になる頃だった。




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