日射病〈前編〉

 ネズミがまた現れた。瞼を閉じたあとの暗闇の中に、いつもネズミの息遣いだけが鮮明に聞こえた。気がづくと一晩中、四つん這いになってネズミを追いかけ回った。

 最後は決まってネズミを捉える。チュッチュともがく声を指で感じ取りながら、爪を柔らかい腹の中に埋め込んで、苦いはらわたを抉り出す。そして舌で触れて、その苦みを味わう前に目を覚ます。

 薄明かりを頼りにベッド前の鏡を見る。映ってる顔はネコなのか私なのか、判然としなかった。

 聞き慣れた舌のクリック音が外から鳴り響いて、ローラが私を迎えに来たことを告げている。普通に呼べばいいのに。何年も会ってないうちにかわいい姪っ子が人間をやめて、立派なウグイスに成長してしまったようだ。

 昼過ぎてようやくベッドから起きれたこと、キャンバスをわざわざ袋の中に入れたこと、ドア前にたどり着くも躊躇って何度も振り返ろとしたこと、なにもかも彼女の舌には筒抜けだと思うとなんだか面白くない。

「いろいろと誤解してませんか?」
 隣で白杖をついて歩く姪っ子が眉を下げて言った。閉じたままの目に細い眉の端が触れそうで、彼女はいつだってこうして、不貞寝してるような顔を作っていた。
「何が? アンタは敢えて舌で世界を聞き回る変態でしょう」
「ひとの頑張りを恣意的に歪めないでほしい。これはこれで大変なんですよ」
「回りくどいことしないで、おとなしく見ればいいのに」

 吐き捨てるように言って、私が彼女の肩がげを奪うように引っ張って、日よけ代わりにしてかざした。すると目の前に急に暗くなって、肩掛けに書かれた十字架模様が視界でいっぱいになった。ローラは肩掛けを脱いで、私の頭に被せたのだった。

「――それ、私以外には絶対に言っちゃダメですよ」

 教会の聖装束でもある肩掛けを躊躇いなく脱ぎ捨てるなお、シスター・ローラの声がまるで礼拝の真っ最中のように静かだった。

 雑草が生え茂る泥地を突く彼女の杖が、ふっと音色を変えて、石畳みを叩いてはじけるように響かせた。私たちが肩を並べて、私が住まう夜明け通り(ダウンタウン)から、陽だまりがあまねく照らす大通りに足を踏み入れた。

 足元にある淡い影が忽然として消えうせたのを見て、私は身をすくめる。あまねく森羅万象を照らし、私を見下ろして、私を真正面から凝視して、私は後ろから覗き込む。

 太陽だ。私は太陽のもとに入ってしまった。

 歩くたびに皮膚が焼け落ちていくのを感じた。痛みがなく、むき出しになった赤裸々な肉が凍りそうだ。差し伸べてきたローラの手を強く握って、私はキャンバスを縋り付くように、一歩また一歩と足を引きずって進んだ。覚悟はしたはずなのに道が永遠に終わらないように思えた。

「あら、シスター。こんにちは」
「こんにちは。晴れ渡ってますか?」
「ええ、良き晴れよ。そちらの方は?」
「……姉なんです。引っ越してきたばかりの」
「あらまあ、それは大変ね」

 誰が姉だ。神職者のくせに適当なことを吹聴する姪っ子を睨みつけたいが、顔を覆う黒い肩掛けを少し持ち上げたら、いつの間にか隣にやってきた老婦人と目が合いそうになって狼狽した。老婦人が私に微笑みかけて、私の顔に手を差し伸べてきて、頬に触れる。

「お嬢さんは街の外から旅してきたの? きっと辛い……暗い目をたくさんあってきたでしょう。もう大丈夫よ。顔を上げて」

 息ができなかった。

 きっと、純粋な善意であろう。俯いて歩く私を心配しての優しさであろう。しかし老婦人の爪の表面に走る微々たるパルスも、皺くちゃの指と釣り合わない、肌の下から伝わる鋼鉄仕掛けの鼓動も、私にはとてつもない恐怖でしかなかった。とうとうネコの爪に捕らえられたネズミのように喉の奥を震わせる。

 なす術もなく顔を持ち上げられて、老婦人と顔を見合わせた。老婦人の両の眼(まなこ)は光り輝いていた。心臓の代わりに胸に埋め込まれた人工太陽の輝きが、私を無邪気に飲み込んで、慈しむように焼き払おうとした。

 ここは晴天通り。後天的晴眼者だけが住まう、夜を忘れ去られた街。。体内の太陽炉を頼ってふたたび視力を取り戻した人々は、痛ましい失明の過去を後にして、光る側に成り代わった。

 ――気がづいたら私はローラの胸に顔を埋めて、我を忘れたようにひたすらに叫んでいた。騒ぎを聞きつけたのか、周りに人がどんどん増えてきて、その都度に私を照らす太陽も多くなって、どこまでも逃げ場を塞いでいく。

 黒ずくめな聖装束で身を包むローラが私を子供のように抱き上げて、果てしない陽光を切り開いて歩み進めた。絶叫の合間に、私の耳そばで届いたは決まって周りからの憂いの言葉。

 お姉さん大丈夫ですか。かわいそうに。外でさんざん暗い目を遭ってきたからトラウマになったのね。ここなら毎日晴れだよ。昨日も今日も、そしてきっと明日も晴れの日なんだから、もう不安がらなくてもいいのだよ。

「大丈夫です。ただの日射病です」  

 目を開けないで、杖と舌の反響で世界を視るローラ。同じ答えを繰り返して群衆に答えた彼女は、私を抱きしめたまま黄昏教会に入ると、夕暮れと同じ色に染めた扉を重々しく閉じた。

 ネコの夢をみた。路地裏の暗がり、じめじめとした天井裏、カビの生えたベッドの下、そういうところにいつだってネコが隠れ潜んでいて、ネズミを待ち伏せては牙で喉笛を割いて、唇を真っ赤に染める。

「晴天が嫌いだ」ネコが愚痴を吐く。「眩しくてやってられない」
「ずっと満月の夜ならよぉ」親友のオオカミが自分のことしか考えてなかった。「太陽を登らせねえ方法ねえのかよ」
「荒唐無稽だね」三角の墓石の下で、仲間たちを包帯男がほくそ笑む。「もっと合理的にやれよ」

 手本を見せるかのように、包帯男が腐った指を自分の眼窩に捩じりこんで、乾き切った眼球を抉り出してみせた。

「ネズミどもから光を奪えばいいさ」

「趣旨が違うってんだよ……風化腐れ脳みそが……」
「フウカクサレノウミソ」
「だからぁ、私は太陽が嫌いってあって……」

 瞬きをして、私は直近距離で浮かぶ二輪の月と、腹を押しかかる重みにぎょっとした。ベッドに眠ってた私を上から覆いかぶさるように、見ず知らずの子供がこちらをじっと見ている。反射的に手で振り払おうとしたら、触れる前にあの子が四肢をぱっと伸ばして、ベッドから飛び退いた。まるで動物だ。

 寝ぼけた頭で、私は自分が見慣れない殺風景な部屋にいることに一時戸惑ったが、すぐにここがローラの寝室だと思い出した。街で錯乱しかけたまま体調を崩した私を、ローラが教会に入るなり二階にある自室に連れ込んで、ベッドに休ませたのだ。

 気遣われて、情けないような悔しいような。下唇を噛んで、頭を動かして周りを見回す。窓にかかる紺色のカーテンに、厚手の点字本が整然と並べてある黄色い本棚。音声操作ノートパソコンがぽつんと置いてある机の近くに、小さな木製のクローゼットがある。

 必要最低限以外のもの一切なく、無趣味なローラらしい部屋だった。きっとクローゼットを開いて隅から隅まで探しても、似たような修道服が何セットも置いてあるだけでほかに何も入っていないだろう。白一色のがらんとした壁にしばらく目をやって、頭を横に振って私がベッドから降りようと身を起こす。

「――お姉ちゃん画家のひと?」
「うえぇっ」

 さっきの子供がひょいっとベッドの横から顔を出して、私を見上げて訊ねた。丸まって金色の両目は薄暗い部屋の中にほのかに光ってるように思えたが、眼眸に映ってる自分の姿を見てほっとした。

 生まれつきの、そのまんまの意味での晴眼者だ。この街では珍しい。この教会では行き場のないストリートチルドレンの世話をしてる。この子もその一員だろうか。

 子供のもさもさとパサつく頭に思わず手を伸ばしてなでると、気持ちよさそうに目を閉じて喉を鳴らして、頭を手に擦りつけてきた。妙に手触りのいい部分があって、犬みたいに笑いたくなるから、ワンコと呼ぶことにした。

 かわいかったころのローラもこの子みたいに懐いてくれたのだろうか。眠気の取らない頭ではうまく思い出せなかった。

「なあに、アンタ? ここの子?」
「お姉ちゃん、画家?」
「お姉ちゃんって歳じゃないぞ」
「月描いて」
「人の話を聞け」
「まんまるくて大きいの」

 自分のことばっかり言う子だ。やはりローラと似てないと思う。あいつももう少しわがままの方が可愛げもあるだろうに。

「絵の具は家に置いてきた。残念だね」

 教会の人に聞けば貸してもらえるだろうけど、ローラがどこにいるかわからないし、ほかの修道女たちはみな後天的な晴眼者で、文字通りに目を輝かせているから、何があっても会いたくない。

 首をかしげてワンコが私をしばらく見つめると、急に趣味を失ったようにそっぽを向いて、両手両脚を使って器用にベッドから離れた。と思いきやローラのクローゼットを勝手に開いて、鼻を鳴らしながら中に潜り込んだ。

「っておい! 怒られるのは私だぞ⁉」

 止めるかとためらってる私を尻目に、ワンコがクローゼットから何かを引き出すと、落ち着かない動きでまたベッドの前に戻ってきて、私の膝の上にダイブした。仰向きで、ワンコがクローゼットから発掘できた戦利品を私に押し付ける。

 それはボロのついた、長方形の小さなクレヲンケースだった。商品名によると子供用十六色太巻きらしい。私が長く息を吸って、吐きだした。何度も瞬きをしてからやっとそれを受け取る私は、ゆっくりとケースの中身を引き出してあらためた。

「……赤だけがない」私がつぶやいた。
「月描ける?」ワンコが同じリクエストを繰り返す。
「このクレヲン、私がローラに贈ったものだ」
「ねえ、描ける?」
「……だった、気が、する」

 ――見ればいいのに。
 ――それ、私以外には絶対に言っちゃだめですよ。

 なぜか今朝のローラの言葉が脳裏によぎった。ベッドから離れて、私は壁まで歩き寄って、手からクレヲンをもって真っ白な壁面と向き合った。背後に声も発さずに見守るワンコの視線を感じた。

 黄色いクレヲンを握って、いったんやめる。月だけを描いては満月にはならないから。だからまずはあい色で壁を塗りたくって、二の腕で擦る。それでできたかさぶたみたいな汚れに沿って緑を、黒を、そして何より余白を意識して私は壁に思いをぶつけた。頭の中にさっき思い浮かんだ疑問をぐるぐると回しながら。

 私はローラにも晴眼者になってほしいから、見ればいいのにと無礼にもほどがあることを執拗に言い放してきた。この街の年寄りみたいに、太陽炉手術を受けて、また見れるようになったら、一緒に絵が描けるから。――また? 

 作画する手が止まらない。星はいらない。月を遮る木々も邪魔なだけだ。爪で強く塗りすぎた部分を小刻みに擦って、私は濃淡をわける色の層を無理やりに作り出して、月明かりを壁の上に光らせようとした。そうしてまた黄色いクレヲンをまた手にすると、後ろからパサパサとした物音がした。 

 一瞥してみたら、犬のように座りこんでるワンコの服からなんと毛むじゃらの尻尾が伸びだして、左右に振り回していた。変な子と思って、注意力がまた絵に戻って、ローラのことで頭いっぱいになる。

 ローラは先天的な視覚障害だ。見れていた時期なんかないから、見れることに憧れがない。だから太陽炉手術にも興味がないというのが彼女の言い分だ。そうと知ってるはずなのに、どうして私は無意識的に彼女が天然的な晴眼者だったと思い込んできたのだろうか。

 解らない。思い出せない。問いが晴れない。雑念を振り払うように、握れないほど短くなったクレヲンたちを、私は肩の後ろに次々と放り投げては、適当に別の色のクレヲンを握ってまた壁に塗りはじめる。

 やがて清潔を保ってきたローラの部屋の真っ白な壁に、様々な色が重なり合ってできた混濁とした夜のとばりが降りた。夜空の中心には淡い黄色で不出来な月がほのかに灯されていて、余白でできた白い川にも映し出されている。

 誰かに完成と告げられたわけでもないが、私は肩を下ろして、数歩さがって自分の絵を見て頷いた。どこまで時間をかかったかわからないが、気がづけばひどく消耗されたように私は肩で息をしていて、足元に座ってるワンコに目を落とす。

「どうだった……?」

 返答代わりにワンコが天を仰いで長く長く吠え出した。頭の両側、さっき撫でたときに手触りがよかった部分から、尖ったもふもふな耳が立っていた。

 そんなワンコの目を私がのぞき込む。静かにたたえていた金色の瞳の中に、長い髪の、赤い目の女が私を見つめ返していた。

「あなた……誰だった?」

〈後編に続く〉

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