自分を凡人と受け入れられない自分

昔から人を羨ましく思いながら生きてきた。

誰からも羨まれない自分と第一線で活躍している誰かを比較した時の情けなさがなによりも辛くて目を背けてきた。

色んな本に共通して書いてある
"他人と比較しても幸せになれない"
という使い古された文言を何度聞いても自分の性格を変える事はできなかった。

だってそもそも、小学生の時から足が速い人がモテて、中学生になって顔がかっこいい人がモテて、高校生になって陽キャがモテて、大学生になってコミュ力が高いやつがモテる世界なんだもん。

他と比較しなくなった時点で、男として、
モテるという行為から目を背けてることになるじゃん?

高校受験だって、大学受験だって
競争競争だったし、進学先でもスクールカーストは明白だった。

そんな競争社会に揉まれて生きてきた自分にとって、他人と比較するという行為を止める事は出来なかった。

比較しても幸せになれない事は分かっているけど、
ある種、他と比較して安心している自分もいるわけで…。

比較って薬は、劇薬だけど、それがプラスに働いて、精神安定剤にもなるし、自分を内部から破滅させる麻薬にもなるんだなってやっと社会人になってから気づいた訳だ。

TikTokなんてみたら、自分より絵が上手い人、顔がいい人、身長が高い人、オシャレな人、センスがある人…
羨望の念に押しつぶされそうになる。

ただそこで、羨ましい!!と思いながら、
自我を保ちつづけ、
自分は最強である。というブランディングを周りにしていくのが私だ。

どれだけ、他人を羨ましく思っても、
自分は自分でポテンシャルもセンスもなんでも持ち合わせている。と暗示をかけて強く大きく見せているのが私だ。

ただのハリボテである。

すごく陳腐で、虚勢を張ってるだけでしかないけど
それすらしなくなったらきっと、
ただの凡人としての自分を受け止める恐怖と対峙する事になる。
それが1番怖くて、1番したくない事なわけです。

名前も身長もルックスもセンスもなにもかも
凡庸な自分の現実逃避はこれしかなかった。

これをする事で、自分は特別だと思いたかった。
なにかを持っていると錯覚したかった。

私はきっとこの想いを背負ってこれからも生きていくことになると思う。

いつか他と比べ無くなった時、自分は成長したと思えるのか、それとも、闘いを放棄したと思うのかまだ分からない。

人と比べて、何かに押しつぶされそうになっても強がりながら生きていく。

強がらないと自分という何者でもない物体と対峙し、俯瞰して見ないといけなくなる。

きっと自分は誰よりも自信がなくて、
誰よりも自分を信じられない人間なんだろうと思う。

自分を守るためのナルシストと
自分を守るための偏見 を持つ自分はまだ変わらない。

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