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人生

[仕事]

僕のアルバイトのデビューは遅い。正社員にはまだなったことがない。生きるスピードが他の同年代の人とは10年くらい遅れている気がする。

生まれて初めて働いたのは、大学一年の頃のはずだ。日雇いの派遣のアルバイトだったと思う。軽作業で京都市内ということだけははじめに知らされていた。阪急桂駅の駅前に集合し、何も説明されずそのまま車に乗れと指示された。(電波少年みたいだった)

そして山の上にある倉庫に連れていかれ、そこで延々と内職みたいな仕事をして5000円くらいもらった。うれしいも残念も何もなかった。

その後も大学への通学が2時間くらいかかることや、僕の地元もなかなかの田舎で、アルバイト募集自体が全然なかったので、ちょくちょく日雇い派遣のアルバイトをしていた。特に資格が必要なわけでもない仕事だったからか、訳ありの人にもよく会った。

恐喝詐欺紛いの仕事をしていて、吹っかけた相手がヤクザだったらしく、ボコボコにされ無職にもなり、懺悔を語ってくれた30代くらいの男性。

平日、フルタイムで働いている工場の仕事でミスをして、同僚から総スカンに合い無視されていると言っていた20代後半くらいの兄ちゃん。

何十年も働いていた職場で、社長がお金を全部持って失踪し、いきなり無職になった50代くらいのおじさん。 一緒に電車で帰っているとき、車窓から遠くを見て「年越しできるやろうか?」と言っていたのが印象的だった。

詳しくは覚えていないが、1日でさよならでそんなに深い関係にならないからか、いろいろと話してくれる人が多かった。仕事もライン作業などで肉体的にも精神的にもしんどいし、怒号が飛ぶ現場もたまにあった。生きるのは大変だとあらためて思った。

[ムダ]

そういえば、昨年僕は無職になった。さんざん心が病んだのでゆっくり休んで人生を見つめなおしている。サラリーマンで社会貢献やお金を稼ぐ以外にも、生きていく術も孤立しない術もあると思う。何かしたい。何者かになりたいわけじゃない。どうにかしたいという気持ちだけある。17歳の頃の20年前と同じ感覚だ。

先日、妻と娘と一緒にラーメン屋に行く途中のこと。4WDでタイヤがでかくて、山や川や砂漠も悠々と走れそうな車が住宅地で走っていた。僕はふと「こんな車、杉並区の住宅地で走ってもムダやん」と言った。それに対して妻に「ひっしーが杉並区にいることのほうがムダだし意味不明じゃん」と言われ、専業主夫で生産性皆無の僕はぐうの音も出なかった。

ムダを否定するということは、自分の存在自体を否定することになるんだと自覚したのと、楽しいことや趣味嗜好はたいがい人生においてムダだなと気づいた(僕の話で言うと、好きなアイドルの動画を見て鼻の下を伸ばすこと、ディズニーランドに行って脳内ファンタジーにふけること、鳴かず飛ばずなバンド活動など)。

更にいうと、人間の中でも衣食住に担う仕事ならばいいが、そうじゃない仕事で稼いでいる人間はムダな存在だと思う。アートなんかは特にそう思えちゃうな。でもムダだからといって切り捨てていいのだろうかな。寂しい話だよな。見るのもやるのも生きる糧になるのになあ。犬猫とかペットを飼うのもそうだろうな。バカヤロウ、人生ムダなことばっかりじゃねえか。つうか人生ムダやん。

いろいろと考えていくと、環境汚染や環境破壊もするし、戦争や原発などでも地球を危機に晒させていて、人間自体も地球にとっては病原菌のようなムダな存在だなあと思う。人間無しで自然界が回ればちょうどいいんじゃないかなと思う。人間もムダ。

人間=ムダ、人生=ムダ、生きることに壮大な理由付けをしたい気も分からなくはないが、案外薄っぺらで「無」なんだろう。

だから、楽しむべきなんだと思う。横柄に他人を傷つけてくるバカは徹底的に無視してやる。横柄に生きてたら、その先にあるのは孤立だけだと思う。そういう人はなぜそれが分からないのかなあと思う(攻撃的になってすみません)。

僕はとにかくやりたいことをやりたいし、妻と娘と猫と楽しく生活したい。基本それだけ。あまり欲もない。ただ、本を読みたい。小説やエッセイをがっつり書きたいというのはある。

今は真っ暗な寝室でぽちぽちと文章を打ち込んでいる。ノートというアプリで文章の表現はとりあえずできるということはわかった。今年は沢山書いてみることにする。

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