見出し画像

漂う

水に潜ると、外界の一切の音が遮断され、水中の自分と対峙しているような感覚に陥る。時折、このように周りの世界の音や動きがピタッと止まり、自分という人間の孤独さと向き合う時間が訪れることがある。

孤独と向き合う時間は、つらいけれど楽しい。
やりたいことはたくさんあるのに、時間と能力とお金が足りない。叶えるまでの険しい道のりを想像して無になりながらも、叶った日のことを考えると、いつの間にか笑顔になっている。

自分の人生を満たしてくれるのは自分しかいない。だからこそ、独りの時間と向き合い絶望と希望を同時に考える作業は、つらくて楽しくて仕方がない。やりたいことが溢れ出てくる自分の貪欲さには、(良くも悪くも)誇るべきものがあると思う。




8月〜9月は、過労により心身ともに参っていた。馬車馬のように働き終電を気にする毎日。落ち着いたと思えばすぐに地方に出張。ただでさえ限界まで働いてるのに、やるべきことが終わらない。私は執筆が生業のひとつであるが、「寝なきゃ書けないのに、書かなければ寝られない」という限界状況が約2カ月続いた。

そんな日々を経て、ようやく10月上旬に遅めの夏休みをもらった。いつもなら連休をもらうとすぐに遠出の予定を入れてしまうが、今回は入れなかった。心身を休め、限界労働中にはとても入る隙のなかった「やりたいこと」へ目を向けることを優先してみることにした。





2023年の年明け。私は、自分しか見ないファイルに「やりたいことリスト」を記していた。

・今年中にやりたいこと
・20代のうちにやりたいこと
・死ぬまでにやりたいこと

3つのカテゴリーに分類して箇条書きにしたそれをしばらく開いていないことに、夏休みに入って気付いた。ふとそのことを思い出し読み返してみると、今年中にやりたいことは、半分も達成できていなかった。

目に止まったのは、「20代のうちにやりたいこと」。そこに書かれていたのは、「マグロの競り見学をする」とか「裁判傍聴する」とか、どうでもいいと言われればどうでもいいとされることもあるけれど(でも絶対にいつか経験したい)、自分の人生を左右するような願いも書かれていた。

・転職する
・結婚する
・カナダに留学する

………。




数年前、南海キャンディーズ・山里亮太さんのエッセイ『天才はあきらめた』を読んだ。そこには、山ちゃんが何者かになりたいと願い芸人を志したこと、天才になりたかったこと、でも自分は天才にはなれないと気付き、さまざまな人を愛し呪い怒り狂い泥のような努力を続けたこと。いま現在の大人気芸人・山ちゃんの姿を確立するまでの日々が、当時の若かりし山ちゃんのリアルな感情とともに綴られていた。

振り返れば、私は環境に恵まれている。東京に生まれ大学まで出て、就職をし、いまも実家にお世話になっている。限界まで働いて帰ってきても、帰宅さえすれば沸いたお風呂と完成された食事が用意されている。大変とはいえ、好きな仕事をして安定した給料をもらっている。芸人の世界と私が生きる世界は比べようがないが、それでも、エッセイを思い出すと、この程度で大変だと思っている自分が恥ずかしく思えてしまった。




…話を戻そう。私は素敵なパートナーがいれば結婚したいし、留学に行き世界の多様な価値観に触れたい。そうした先の自分がどのようなことに興味を持ち、どのような人生を歩みたいと思うか。未来の自分の姿に強い興味があった。言葉にすれば軽々と挑戦できるように聞こえるが、結婚も留学も、実現させるにはさまざまな角度からの努力が必要不可欠だろう。死ぬときに自分の人生に満足できるように、これから先も自分なりの努力を重ねていきたい、いや、重ねていかなければならないと自分に誓う。

そして、この誓いを忘れてしまわないように、なかったことにして「何もしない」という選択をする未来に蓋をするために、あえてこの場所で、(フォロワー極少のため)控えめに宣言する。





何者でもない自分の不甲斐なさや才能のなさに打ちひしがれ絶望する夜。こんなに頑張っているのだからいつかきっと報われるだろうと、不確かな何かにすがるように信じる夜。仲良くないけれど相互フォロー関係にある友人の幸せそうなSNSを見て嫉妬する夜。激務を本気で心配してくれ、夏休みが取れたことを報告したら安心してくれる友達がいる幸せを噛み締める夜。いろんな夜を経験していたら、気付けば20代も後半に差しかかってしまった。

きっとこれからも、小さなことに絶望したり、しょうもないことで舞い上がったりしながら生きていく。不安定な夜を漂いながら、それでもきっと幸せという名の陸地へ辿り着けると信じて、私は今日を生きていくのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?