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パリオリンピック開会式は、“人生”だったね

今日の2時30分からフランスのパリで開かれていたオリンピック開会式をテレビで見ていた。
とにかく、最高だった。
今でもまだ心が震えているのを感じる。

オリンピックは、賛否両論だし、運営組織にも色々な問題はあるだろうが、オリンピックが槍玉に上げられる状態は、世界に余裕がある証拠なのかもしれない。
完全な聖域になっても、開かれなくなっても、批判の的にならなくなっても、「スポーツに向けていたような感情、今はどこに向けられるようになったのかな」と、私なら思う。
コロナ禍で開催された、悲壮感漂う東京オリンピックの開会式も見ていたからだろう。
何か災厄がふりかかると、国を挙げて悲しみ、祭事を慎み、脚本もどことなく説教くさくなる、日本の伝統文化がリアルに描かれていて、まあ、あれはあれで日本の姿を写し出していたように思う。
色々不満はあるかもわからないが、東京オリンピックにも、隔離と断絶の壁を破壊した力はあったのではないかと思うし、それは常日頃から災厄に見舞われている日本だから、担えた役割なのかもわからない。
不滅と再起の日本から、愛と奮闘のフランスに渡ったのは、良い流れだったように、私は思う。
儀式とは、なんとも不思議だ。
人やその地域の想いをものの見事に写し出す。
競争も、勝利も、称賛も、批判も、反則も、憂鬱も、嫉妬も、歓喜も、敵対も、協力も、確かに在る人間の生き様だ。
競争と勝利の刺激を前に、平静を保てるのなら、スポーツマンシップの宣誓など必要ないし、そもそも試合も成り立たないのだ。
どうでもいいけど、試し合うと書いて、試合なんだね。

それはさておき、オリンピックの開会式で、墓地を通過したり、働く現場を通過したり、図書館や美術館を通過したり、スポーツとは一見関係ない場所を映す映像を挟んだのが、なんとも印象的だった。
聖火台が空に昇ったのもなかなかに強烈で、BGMがセリーヌ・ディオン歌唱の『Hymne à l'amour(愛の讃歌)』だったのも涙を誘った。
それで聖火ランのはじめの方で、子供たちが墓地を通ったのだなと思った。
亡くなった人も、地下鉄で働く人も乗る人も、工事現場で働く人も、ルイ・ヴィトンの一針を担う人も、荷物を運ぶ人も、カフェで過ごす人も、愛を語らう人も、踊る人も、歌う人も、絢爛豪華な服の人も、裸を青く塗った人も、誰もが皆、フランスの誇りであり、命だった。
開会式で描かれた人の姿の全てが、等しく“人生”だった。
「パリとは」を描く才や格のようなものが違いすぎて、たった四時間で国と人を描くことの凄さに打ちのめされてしまった。
全ては表れない、でも、全ては等しく、フランスの愛で、誇りで、命だった。
国家に集約できるものではないのかもわからないが、頭の悪い外野の私は「開会式は、確かにパリだった」という感想しか抱けない。
四時間に凝縮して、深夜早朝に受け取れるものではなかった。
終わってから十時間も寝た。

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