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ルッキズムの話 その2

少し前に、「俺は見た目に興味関心がない」という人に出会いまして。その人は、「自分の見た目にも、他人の見た目にも、本当に関心がない」って言うんですよ。正直、そんな人、本当にいるのかなあと半信半疑なところはあったんだけど、例えば同じ色のTシャツとかパンツを何枚も持っててそれだけを着回してるとか、髪の毛は邪魔だからスキンヘッドにしてるとか、女の子の顔面や体型にも本当に興味がない、可愛いかどうかじゃなく頭の良さで好きになる、とか、話を聞いていくうちに、ホントっぽいかもと思うポイントが結構たくさんあって、最終的には信じた訳なんですが(笑)。話をしていて、最初こそ「ルッキズムを完全に脱却している人がいる!スゴイ!」って思ったけど、だんだん「いやいや、私これになりたい訳じゃないよな」って思ったんです。

確かに、自分や相手の外見を気にしなくなればメンタル的には最強というか、外見という、本来人間の精神性とは関係のない部分で悩んだり苦しんだりしなくなるというのは超絶ヘルシーな状態だよな、という理解はできる。だけど多分、別にそうなりたいとは思ってない。「ルッキズム脱却への道」という記事を書いたはいいけど、もしかして私、本当の意味で「解放されたい」「脱却したい」もっと言えば「やめたい」と思っているわけじゃないんじゃ・・?ってなりはじめました。でも、それはなんでなんだろうって、スキンヘッド男に出会ってからずっと考えてて。現時点では、二つの理由があるなって思ってます。

ひとつは、外見を磨くことで自分の心が踊ることを知っているから。まつげパーマをして毎秒まつ毛が上を向いていたら超嬉しいし、ダイエットをして着たかった服が綺麗に着れたら本当にハッピーな気分になる。上手にメイクが出来たら一日ご機嫌だし、ネイルを変えるだけで映る世界が華やかに変わる。誰かに褒められたらもちろん嬉しいけど、それはあくまで目的にはならなくて、とにかく第一に自分のため。内面のケアよりも、外見のケアは分かりやすくてすぐに実践できるもの。他人や自分を蔑んだり苦しめるためのルッキズムは言語道断だけど、自分がハッピーになるためだけだったら、めちゃくちゃ素晴らしい心理セラピーであるってことを、私たちは知ってしまっているのです。

もうひとつは、人間は比べてしまう生き物であるということを知っているから。変な例えをしますけど、たとえば人間の顔が足の裏にあったら、顔で判断する風潮は無くなると思うんですよ。でもすぐに別の何かで比べはじめるだろうってことくらいは簡単に想像できる。もしかしたら今よりももっと「体型」だったり「背丈」だったりが重要視されるかもしれないし、まあ顔が足の裏に来る未来はないのでアレなんだけど。普通にたとえが変すぎました。ただ、人間の性質として、(もちろん見た目だけじゃなく)どうしたって比べたがるというのはきっと昔からそうで。そうじゃなかったらむやみやたらに「人と比べるな」なんてスローガンの如く叫ばれたりしないと思うんです。じゃあ、先述した、見た目で判断しないスキンヘッドくんはどうだったか?くだらないことで人を比べていなかったか?それもやっぱり、NOです。話を聞いてると、仕事が出来ない人間を軽蔑するような発言だったりミソジニスト的な側面を感じる場面もありました。「見た目に関心がない」という性質が彼にあったのは間違いないけど、だからと言って、万物を平等に捉える神のような存在かっていうと、そんなわけはないんですよね。「ルッキズムを克服すること」が全部の解決策にはならないって、目の前でネタ明かしされた気分っていうか。なーんだ、でもまあ、当たり前だよなって感じだった。

そりゃあ、わたしだって比べたかないけど、人間社会に生きる上で一切誰とも比べない生活というのは、学校や会社、あらゆる組織に所属したり関わる以上、正直むりだろうと思う。そうしないと社会の秩序がめちゃくちゃになってしまうから。ただ、それを理解した上で、例えばそれが「ルッキズム」だったり、はたまた「学歴」「人種」「性別」など、状況により色んなパターンがあると思うんですけど、とにかく浅はかな価値基準全般に飲み込まれないぞー❗️という心意気、というかね。大切なのはそこなんだろうなと思ってまつ。

だから、言ってしまえばこの話って、ルッキズムにとどまる話じゃ全然ないんですけど、あえて限定して続けます。先ほど、私(たち)は本当の意味でルッキズムを「脱却したい」わけではないんじゃないか、という仮説を立てたわけですが、じゃあどうしたいのかというと、「立ち向かいたい」みたいな表現が合うのかなと思っていて。それはつまり、世の中の矛盾とか残酷な構造とか人間の不完全さを理解した上で、自分自身は「容姿で人を測ることをしない努力」と同時に「自分を磨く努力」をすること、なんだと思う。これって、ルッキズムを「脱却する」「やめる」ことよりも何倍も難しいかもしれないし、一見矛盾しているようにも思えるかもしれないけど、頑張りたいんですよ、どうしても。出来るか分からないけど、立ち向かいたいんだと思った。

世界を変えたいとか、そんな大それたことを思ってるわけではないけど、現世に蔓延っている差別とか偏見に対して完全なる諦めの姿勢を持って問題から目を背けたり思考停止したりするよりも、現実を知った上でもがいてみることの方が、よっぽど意味のあることなんじゃないかと思うのです。より善く生きるための意味。うーん、なんかデカくなってしまったな、規模が。だけど、生きてるだけでこんなに振り回されてんだから、こっちだって諦めてやんねーからな❗️っていう、意地みたいなものがあるんだろうなと思う。誰に対してってわけでもないのにね。考えれば考えるほど、人間って愛おしい。。とはいえ、脱却してる人間が必ずしも思考停止してるわけじゃないなんてことは、もちろん分かってる。でももがき続けることを私は選んでいて、それがきっと悪くない選択だってこと、今はなんとなく確信を持っています。おわり

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