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希死念慮と空虚と春

おはよう。
外は暖かく、夏のようにさえ感じてしまう。
いつものコンビニで爽健美茶を買う。

度々思うが、爽健美茶だけは目隠しをしていても分かるという自負がある。それだけ他のお茶とは違う何かを感じるのである。飲み始めか、口で転がすターンか、喉元を通り過ぎる感覚か、はたまた余韻か。きっと、そういう面白さが私の手を爽健美茶へと運ぶのであろう。

    さて、貴方は天国を信じるだろうか。
または地獄でもいい。死後行き着く場所が果たしてあるのかどうか、それが問題だ。

私は、有るのであれば望むし、無いならば無いでそれもまた仕方の無いことだろう、というあまりにふわっとした考えを持っている。

勿論願望としては、逝去した人間が生きた事を振り返り、労われ、死者同士諍いなく、穏やかにあれる場所があって欲しいなと思う。

だが死後の充実度には、生きていた間どのように生きて、どのような最期を遂げたか、そこが深く関わっているのではないかとも思う。
何故ならば、大犯罪を犯したようなどうしようもない人間と、沢山の人を愛し愛され幸せな最期を遂げた人間が、同じ輪廻の中を歩けるはずが無い、歩いていい訳が無いと思うからである。

少々自分を棚に上げた酷な思想ではあるが、決して軽い傲慢などでは無いと誓いたい。

    ふと風呂でシャワーを浴びている時、死ぬのが怖いと思う事がある。それと同時にもう誰も周りの人間に死んで欲しくない、もう人の死を受け入れられない、と思う。
死ぬのが怖いというのは、勿論自分の死に対しても思う事ではあるが、それよりも家族、親戚、友達と言った身近な人間の死が怖い、という気持ちの方が大きいのが事実である。

まるで人が死ぬ事をまだ理解出来ない幼子のように、その恐怖を抱えて布団に潜り、泣き腫らして朝を迎えるのだ。

こんな話は、霧を掴むような起承転結も出口も無い行方知らずのものだが、人間というのは無駄なものにこそ意味を求めたがる生き物であるが故に、このような妄想に耽けて日々を磨り減らしていくのである。


死にたいと思う。全て投げ出して。
投げ出すものすら無いけれど。
でも至極当然な事に、幾ら死にたいと希死念慮を叫んでも死が訪れるなんて事は無く、自ら赴かねばならない億劫に嫌気が差して、空虚な日々が流れてゆく春。

死にたいなんて言いながらも軽々と淡々と日々を過ごしている自分に少し矛盾を感じてきた。きっと僕らは死にたいんじゃなくて、生きるという窮屈な部屋に、「死」という換気扇を作って時々それを回す事で、生きやすくしているんだろうな、と思う。だから、一概に「死にたい」が悪いものだなんて言いたくないし思って欲しくない。逃げ道がある方が人生を楽に出来る人もいるだろうから。

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