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天然は人工的である。

 自然とは、太古の昔からその意志を受け継ぎ、"人"という「他」の追随を許さなかったもの達であると、突然思った。例えば、イチョウの木であったらその場に何百年も前からあって今日まで人の手に侵されなかったものの事を言うのだと思う。
 僕が思うに今この世界にある自然は、殆どが人の手によって造られた、"人"が意志を繋いできたものなのでは無いか。自然には人間によって淘汰されてきた歴史がある。人間もまた人間同士淘汰し合ってお互いを確立し、この世を造り上げてきた。人間は、この世にあるものは全て自分達のものであり、私達が守っていかなければいけない、言う事を聞かせたい、そういう潜在的な思考を少なからず持っているはずであると僕は踏んでいる。普段そんな事思ってないと誰もが言うだろうが、そうは言っても、何処か心の中ではお互いを蔑み合っている筈なのだ。

 今綴っていたこの話はまだ自分の中で育てていかなければいけない未熟な考えだ。是非真に受けて批判するなどしないで貰いたい。

 つまり僕が言いたかった事は、自然や天然と言うものは人の手によって造られた人工的なものであり、今も尚太古からの意志を受け継ぐようなものは少なくなっている、という事だ。
 人々が日々綺麗と感じている草木、総称して「自然」は人工物なのであると考えると、また様々なものの見方が変わってくるのではないだろうか。

 もう1つ考えている事を綴らせてもらう。
 それは「○○は○○である」という文章に対しての考えだ。最近、「○○は○○である」という文を目にした時、違和感を感じた事があった。「○○は○○である」という文章は前と後の言葉が同じ(または同じニュアンスのもの)である場合のみ使えるものなのではないか、と思う。イコールで繋げるものにしか使えない、という見解だ。未熟ではあるが個人的には凄く好きな考えである。もし前後の言葉が同じでは無いならば、「○○は○○であるかもしれない」「○○は○○である可能性がある」と言う文の構築が最適。こんな感じの不完全な考察、見解だ。

 ここまでの文は、自分の考え(言わば、脳内にある断片的な考察の乱雑な整列)を垂れ流している状態なので、文として拙い故読みづらい点があるのは御承知頂けると有難い。それと、わざと難しい言葉や文体を使いたがるのは僕の悪い(良い)癖だから、そういうものだと思って読んで欲しい。

 こう言った文学的で論理的な考察をするのが楽しくて堪らない。全く理に適っていなかったり考察が間違っていたりする事もある。でも、それらが自分の人生にたくさんの彩りを与えてくれて、それの幾つかが花開く時もある。自分の考えを声に出して、紙に綴って、豊かな生き方を出来たらいいと思っている。

“御読文”ありがとうございました!

おまけに、
自然と天然について後程調べさせてもらった所によると、

「自然」は人為的ではないもの、「天然」の人工的ではないものを表すため、若干言葉の意味は違いますが、どちらも「人の手が加わっていない」ということを表している言葉です。 違いとしては「自然」はありのままの状態を表すのに対し、「天然」はありのままの性質を指します。
参照:
https://www.dr-recella.com › 
天然素材と自然素材の違いは?人工的な素材との差や天然 ...

という記述があり、また僕の見聞が広がりました。この考えを踏まえると、自分の考察にまた違った要素を取り入れられるかもしれないですね。こういった所も知らない事を考察する楽しみの一つです。

それでは。

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