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性認識

LGBT(最近はQも入りますね)という言葉が周知されはじめ、色々なところで目にすることが多くなってきました。
それに伴い、都道府県や国で色々な政策がとられ、色々な人が声をあげられる世の中になってきたのだなーと感じることもしばしば。

自分の性認識

ご自分の性認識って考えたことありますか?

そんなことをわざわざ考えなくたって、自分は男だ!女だ!という人はそれでいいのです。
意識していなくても自分のことを認識出来るというのは素晴らしい事です。

物心ついた時から私は自分の性認識が長らく留まる事がありませんでした。
自分の性認識がずれているのではないか?と気づいたのは子供の頃の子供同士の何気ない会話からでした。

子供の頃、住んでいた自宅の隣りは男の子だけの三人兄弟の家で
三人兄弟の真ん中の子と同級生で、一人っ子だった私はその家によく遊びにいっていました。
その家には色々な年代の子供たちが遊びにきていたわけですが、遊びにきている子達は全て男の子でした。
その中で紅一点で遊んでいた時に、ふと自分のことを「私」と表現したら
とある子が「○○(本名)が私っていうのはなんか変だ」と言いました。

今までそんな事を言われた事がなかった私は何を言われたのか、最初理解が出来ませんでした。
自分のことを名前で呼ぶのは好きじゃないし、私って自分のことを言えなかったらなんと自分を呼んだら良いのだろう…?と真面目に考えました。

その男の子は続けて言いました。
「みんな自分のこと、俺とか僕っていってるんだから同じにしようよ!」
今から考えると、その男の子は男女とか関係なく、一緒に遊んでいる中で一人だけ自分たちと違う一人称を使う私のことに対して違和感があったからそれを解決する為に、自分達と同じ呼び名にしようと言ってきたんだと思います。

「自分のこと、ボクって言ってみようかなー」
気軽な気持ちで答えました。
正直、その時の自分は私という一人称を使うよりもボクと呼んだ方がなんだかしっくりきていたのです。

男とか女ということは関係なく、自分にしっくりくる呼び方が出来たことだけがその時は嬉しかった。

自分のことをボクと呼び続けたのは、30歳手前くらいまで続きました。

周りからは言い方を直した方がいい。おかしいと言われ続けましたが
かしこまった場所ではちゃんと私というし、特に何の問題もないでしょう?としか思っていなかったのです。

性認識の形が定まらない

男になりたいわけではない。
自分は女性だと認識している。
女でいることが嫌なわけではない。
けれど、私と自分を呼ぶ事に対して違和感しかない。

そんな状態のまま、学生生活を過ごしていました。

中学までは共学でしたが、高校になって女子高へと進学をしました。
名の通り、女子高なので女子ばかりなわけですが
そこでは色々なタイプの女の子がおりまして。

ふわっとした女の子
ちょっとギャルぽい女の子
オタクぽい女の子
ボーイッシュな女の子
あまり人と関わらない女の子

色々なタイプの女の子がいてくれたおかげで、自分の性認識について考えることが減りました。
そんな事をわざわざ考えなくても、自分は自分のままでいいんだろうなーと気軽に考えていたのです。
実際、仲良くしていた仲間内には自分の事を俺と呼ぶ子もいましたし
私自身が自分の事をボクと呼ぶ事に対して何の違和感もなく過ごせていたのです。

男性が好き?女性が好き?

学生生活の中での大半の話は趣味や好きな芸能人、そして恋バナ。
いかにもな学生の会話ですね。

そんないかにもな学生の会話をしていたある日

「○○(本名)ちゃんてさー、女の子も好き?」

と聞かれました。

うん。好きだよー。可愛いし。

「じゃあさ、付き合ってほしいって言われたら女の子とも付き合える?」

うん、付き合えるー

自分でも驚くほど、即答した自分がいました。

男性だから好きになるとか女性だから付き合えるとか
そんなこと、当時の私も今も私にもどうでもよくて。

性別に対して興味がなかった。
今も昔も、小さな時からずっと。

男性だから、女性だから
その二択で好きになることはなく
その人自身でしか判断ができなかったのです。

今、思うと有難いことに
その時に学校で一緒にいてくれた人たちは
私のスタンスを否定しないでいてくれました。

一般的に考えれば、否定されたり、気持ち悪いと拒否されたり…
本当に色々な反応があると思うのですが
反対するわけでもなく、否定するでもなく、

ただただ、そうなんだー

で終わってくれたのです。
それを同意ととるか、興味がないととるかは人によると思いますが
少なくとも、その時の私は友達の反応に救われたのを覚えています。

成人して、大人になってスタンスは変わるのか?

よく女子高出身だと、友情の先に恋愛じみた感情が伴って
それを同性愛と勘違いする人もいるというのを
学生時代に言われたことを成人間近で、ふと思い出しました。

学生時代、男性とも女性とも付き合って
相変わらず、自分の性認識が迷走したままだったので
今思うと馬鹿馬鹿しい話しなのですが
年齢によって、ある程度の感情に線引きがされるのであれば楽だなんて思っていたのです。
この頃の私は自分の精神的な病気に加えて、性認識が定まらないことへの疲れを感じていました。

モヤモヤした感情を抱えたまま
成人を迎えましたが、結論としては何も変わりませんでした。

それは今も続いていて。

男性だからとか女性だからとかどうでも良くて。
その人のことが好きなら性別関係なく好きだし、嫌いなら嫌いだし。

自分の中で「今のままでいいじゃん。」と開き直ることが出来たのは
20代半ばのことでした。
自分がどう人を愛したいのかも、自分がどう人から見られてどう愛されたいのかも、別に型にはめる必要性はない。
そう思えるようになった頃から一人称が「私」に定まってきて、服装もメイクも自分の好きなスタイルを通せるようになってきました。

男性であること、女性であること、属さないこと

私にとっては性別というのは一つの記号であり、その記号の必要性は正直あまり興味がなく、価値があるものとは思えませんでしたが
性別という記号があることで救われる人も多くいると思います。
私はそれを否定するつもりはありませんし、その方が大事にしている性別という記号や、性認識は尊重すべき事柄だと思っています。

寧ろ、羨ましいとも思ったりします。

私自身が大事にできなかったもの、必要だと思えなかった
人としての要素を構成し、認識する上で必要なものを胸を張って自分の性別を話せる人のことを時たま…いいなーなんて思ったりすることも。

どちらにも自分は属さない!

と言い切れるのも素晴らしいです。
自分というものを背負って生きていく貴方の姿は美しい。

どの性別とか関係なく
本当の自分を認識し、言葉にするというのは簡単なようで
本当はとても勇気のいることだと思います。

自分のことを改めて言葉にするというのは容易くない。


現在の私は女性として、生きています。
一人称は「私」を多用して生きています。

人への「好き」の対象は今も男性や女性関係なく
人として好きなら好き。というスタンスは相変わらず変わっていません。

男性女性関係なく、好きになった人が好きな人
というのを最近ではパンセクシュアルと呼ぶらしいですが
自分がそこに属するのか?というと疑問があるので、自分のことをパンセクシュアルであると公言はしていません。
好きになる人の性別に興味はないよ。同性でも好きになるよ。とは言います。

こういうのもセクマイに入るのかしら?

と思ったりもするのですが
なんとなく…文章にしてみた手かったので書いてみました。

どう伝えたら良かったのか、どうまとめたら良かったのかが未だに定まっておらず、何度も何度も書きなおして、この形になりました。

少しずつ、内容を改変していくかもしれませんが、今日のところはこんな感じでお伝え出来ればと思っています。

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