改めて思うよそはよそ、うちはうち
学生のとき、似たような人が集まる学校に通ってもクラスの中はみんなそれぞれ性格も進路も価値観も全然違ったはず。お医者さんになるために大学に行く子もいたし、音楽の才能を伸ばした子は芸術系の大学に行った。技術を得るために専門学校に行く子もいた。同じJKでも隣の人と自分が違って当たり前だとわかっていたと思う。
それなのに、子供を産み落とすと突然お母さんという超巨大主語に押し込められた感じがあってそれに無性に反発したくなる瞬間があった。
働くことが目前に迫ると、今度はワーキングマザーというそんなに簡単に何十万人もの人を押し込められなさそうな主語にまさに自分で自分を押し込もうとしているなぁと思っている。
だからこそ働き始める前の今、自戒のために書いておきたい。
よそはよそ、うちはうち!の精神を、楽な意味にも背筋を伸ばす意味にも使っていきたいということ。
楽な意味は、多分多くの人がほっとするために使っている。お惣菜で固めた平日ごはん、YouTubeも育児に積極的に使う、それでも元気に育って家族みんな笑ってればいいじゃん!
それでいいと思う。
でも逆に、それをほかの人にも押し付けることはしたくないなぁと思っている。
あなたも大変でしょ、あなたの家も実質ワンオペでしょ、みんなできなくて当たり前だよね。
ということをわざわざ左右を見渡して、同じ主語に押し込められた相手と確認し合うことにはあまり意味がないように思うから。
その隣の人、絶対自分と持ってる手札ちがうもの。
学生の時、一緒に走ろうねと友達と声をかけあったけどやっぱり置いて行かれた寒い季節の長距離走を思い出す。
それよりも、残念ながら苦労しなくてもできる人はできてる、恵まれてる人は恵まれてる、努力する人は誰に言わず努力してる、そう思う方が自分にとっては健全だなぁと思うようになった。
その方が、誰かに対して
ずるい、たまたま条件に恵まれただけだ、とか思わずに済む気がする。
なんなら、じゃあ今の手札でどうするのか、自分のことにだけフォーカスできる気がする。
何かが難しいなら、別の何かで代替できるか考える。
何かを諦める代わりに何かをもう少し積み上げてみる。
自分の家庭でこそ持続可能なやり方を模索する。
そういう努力を積み上げるのは精神衛生にも家族にも自分にもいいかもしれないと思う。
なんなら、母になった今の自分をそのまま受け入れるための作業になっていくのかもと思っている。
こんなに全てきれいに進行することはないだろうけど、育休終盤にすごく強く思ったので自分のために書き残しておく。