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ならばここに花を植えよう

わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない
ならば ここに
花を植えよう

これは詩人の工藤直子さんの「花」という作品です。

読む人それぞれに色々な思いがわくような素敵な詩だと思います。

「わたしの人生から出てゆくことはできない」
という詩の中の人の心は
受け入れがたい事象、逃げたくなる事柄から決して目をそらせていない
ように思えます。
「わたしの人生」にはもちろん良いことも悲しいこともあるでしょうし
後天的に能動的に変化させてゆこともできれば、反対に先天的であり受動的にどうにもならなこともあります。
ここで述べられている「わたしの人生」はどちらかというと後者のどうにもならない先天的で運命という他ないような人生のことを指しているようにも思えます。
そしてその人生の「どうにもならなさ」への気づきと眼差しが語られてもいる気がします。
そして
しょうがない、知らない、わたしに責任はない

思わず、
もっといえば他者を呪ったり、天に懇願したり、地団太を踏んだり、自分を傷つけたり、意識を眠らせてしまうのではなく
醒めたまま
この詩の主人公は
「どうにもならないこと」「出ていくことができない事実」をぐっと引き受けて
「ならば」
「ここに花を植えよう」
と受動から能動へおおきな大転換を成し遂げています。

ここには「心」といものの本質が垣間見えるような気がします。

そもそも、たとえば「心」のはじまりは「死」を「死」として意識できるようになるところにあるといえるのではないでしょうか。
「自然」から新しい脳の進化とともに離別する形で人は人になり心(記号/ことば/象徴機能)が生まれたという考え方があるとすれば
自然から出てそして自然に気づき、そしてその「どうしようもなさ」と直面したのが「こころ」の古いはじまりかもしれません。
古いはじまりのこころは「どうにもならなさ」に対して
たとえば仮説になりますが、ネアンダルタール人では死んだ仲間に「花をおく」という行動を生み出します。これは文化の古いはじまりを考えることにもつながるでしょう。

工藤直子さんの詩に戻ります。

わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない
ならば ここに
花を植えよう

詩の主人公は「花をおく/花束をたむける」のではなく
もう一歩、能動性を発揮して「花を植えよう」と
とても高らかに元気よく宣言しているようにも思えます。
ここで植えるというのは「大地」であったり「育つ」であったりとても伸びやかに未来に向かってまた自然のもつ力へと帰っていくような素晴らしいイメージの広がりを与えてくれる結末になっています。
同時に「心」の持つ厳しさや悲しみまたその偉大さがたった5行の詩に凝縮されて表現されているようにも思えるのは私だけかもしれませんが
今日も病というある種の自然のコントロールに苦しむ患者さんの心に
この詩の持つ厳しさや優しさや偉大さのエッセンスが少しでも届いて欲しいなと願います。






阪神大震災からも

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