東洋医学の証と心理学の類型論、特質論
東洋医学では望、聞、問、切といって患者さんをみたり、聞いたり、触ったりしながらその方の全体的な証というものをたてる。
脈をみたり舌をみたりetc
葛根湯証やなーとか、虚証やなーとか証を見立てながら普段やっている。
これはたとえば心理学での性格の類型論、クレッチマーやユングのなんかに似てると思う。
クレッチマーは肥満型や細長型、闘士型でそれぞれぞれ、おおらかで社交的、繊細で非社交的、神経質で頑固、そして躁鬱、統合失調、てんかんの循環気質、分裂気質、粘着気質というのにわけている。
直感的に理解しやすい
ユングの類型論、タイプ論も面白い。
合理的な判断機能の思考と感情、非合理的な直感と感覚の4つに
それぞれに外向性と内向性などをおいているところはどこか易経とかの陰陽論に近いものを感じる。
さてしかし証というものは術者の判断でレントゲンのように客観性はないので実際には上手く症状がよくなれば証はあっていたとする至極、臨床的なはなしになる。
その人の元のタイプ、熱タイプとか冷えタイプみたいなのを想定して、それがどう環境や自然から外れたり崩れたりするかをみていく感じなのだが、そんなタイプ、類型が実際にあるの?見る方によってコロコロ証なんてかわるやんといわれると、うーんと唸るしかない。
たとえば心理学もパーソナリティ、個人のちがいというものにいろいろ苦労してるみたいだ。
そんな中でも、オールポートは辞書から人の性格を表す語をたくさん集めて「特性」というのをあるとして目に見えるサイコグラフにおとしこんだ。
キャテルやアイゼンクは特性を因子分析で統計にのせてしまった。
この目に見えないものを目に見えるところにおとしてきてグッと科学化、統計化するところはすごい。
今現在はビッグファイブという
外向性、調和性、誠実性、開放性、神経症傾向の5因子を測定する性格検査がよくおこなわれるらしい。
さらには性格、パーソナリティはたとえば親や環境を考慮にいれると発達段階説となってフロイトの幼児期の授乳や排泄や性の話からやエリクソンのライフサイクル論まで入ってきてなかなか大変になるので今日はここまでにするが、人を理解したり判断することの深さと難しさはいつも感じていたいな。
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