「ガルヴェストン」(2019/5/19)

「ガルヴェストン」で、ロイがロッキーを見つけたときの、あの一瞬嗚咽を上げそうになったときのあの顔、取り返しのつかないものを見たときの、どうにか時間を戻したいのに、もう決定的にどうにもできないってときのあの顔、膝から崩れ落ちたくなるほどの悲しみだが、しかし、おいそれと悲しみが身体を乗っ取ってくれないときにするあの顔…

あの顔は、そのまま、この映画を観た者たちの顔であるだろう。

メラニー・ロランが残酷なのは、ロイとロッキーの最後の接触をほんの十数秒ほどで終わりにしてしまうところだ。ロイが目を見開いたままのロッキーにカーテンをかぶせる、ただそれだけ。映画とは、ここで主人公が慟哭し遺体を抱きしめることでなければならない、と誰もが思う。しかし一方で映画とは、主人公に遺体を抱きしめさせる羽目に陥らせた敵(この敵はまた観客全員の敵でもある)を、当の主人公自身によって徹底的に殲滅し尽くさせることでなければならない、と誰もが思う。ロイとロッキーの最後の邂逅が束の間であることは、悲劇のクライマックスたりうるシーンが十分に描かれなかったとか、あまりにロッキーを即物的に描きすぎであるとかの不満をもたらすだろう。しかし喪の儀式が束の間であるという不満も、もしそれが、ロイによる殲滅作戦へとつながる物語的必然であったとすれば、納得できるかもしれない。

やっぱさあ、ぶち殺しまくってほしいわけよ。せめて関係者全員血祭りにあげないとこんなのやりきれないでしょ。そしてロイは車を奪うために一人殺って、車に乗り込む。さあ始まった。と思いきやロイは逃げる。とりあえず逃げて後日皆殺しだよな…と思ったら後ろから撃ってくる…割れるリアウィンドウ…後方を振り返り撃ち返すロイ…何発か打ち返した後、彼は前に向き直る。そうかとりあえず逃げるのか、逃げて万全を期して後の皆殺しか、うまく逃げてくれよ…と思ったら車止める、バックする、リアウィンドウ割ったやつ轢き殺す…そうか、この場でケリつけるわけね、いいぞ!殺戮祭りじゃ〜い!と思ったら突然の衝突音→ブラックアウト…

この間一切の切り返しがない。カメラは一度も追う側からロイを捉えることはない。かといって、ロイが振り返る先を写すこともない。追う者の視線も追われる者の視線も擬することのないカメラは、しかし超越的な第三者として俯瞰を映し出すこともしない。カメラはひたすら逃げるロイに帯同し続ける。その視線はロイと共に逃げる観客の期待の視線である。しかしその期待は、衝突音と、その後の病棟でのシーンによって裏切られる。復讐へと宙吊りにされた期待はもう実現されないのである。未決状態が与えるテンションが動力となって展開されるものがサスペンスであるとすれば、見事にサスペンスであったと言ってよいだろう。しかし同時に、サスペンスとは快楽の形式でもある。sus4はトライアドに、ドミナントはトニックに移行しなければならない。そうしてはじめて快楽が達成される。しかしそのような快楽はこの映画にはない。しかも、ロイは死ねないのである。死んでしまうことが彼の唯一の救いであったはずだ。こんなの、語の最もシンプルな意味において悲劇以外の何ものでもあるまい。

つまり、ロランは観客が見たいものを何一つ見せてくれないのだ。最も見たくないものを見せ、最も見たいものを見せないという、ある意味わかりやすい戦略ではある。しかしどうだろう。見たくないものを見せられることを誰もが予感していなかっただろうか。カントリーの流れるレストランでのダンスにおける、ロッキーとロイの幸福を見ながら、しかし彼らのその後の幸福を確信する者などいただろうか。彼らの幸福の場所であったガルヴェストンの砂浜から見える海は、ハリケーンの中で荒れる海と同じ海ではないのだろうか。モーテルのプールの青、そして何よりロッキーのビキニの青の鮮やかさは、むしろ冷たさの色価を帯びていなかっただろうか。私はモーテルで泳ぐロッキーを観ながら、「水温低そう…冷たくないのだろうか」と思っていたのだが、他の人はどうなのだろう。

もろもろ確認するために再見したいが、それは、ロッキーの何も見ていない眼をもう一度見てしまうことでもあるので躊躇してしまう。なにより、分析することなく、この映画の手触りを残しておきたい気もしている。ただ、ロイの、あの「No」だけはもう一度聞きたい。言うべきときに言わなければならない最高のトーンでの「No」。あれで一瞬でもロッキーは救われたのだと思いたい。思い込みたい。