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定期券を失くし、宿業思想の心地よさに気づいた話

駅のホーム。人の流れの中をたゆたいながら群衆の後ろを歩き、階段を降りて、改札にスマホをかざした。

反応しない。

珍しいことではなかった。手帳型スマホケースの中に差し込まれている定期券は、往々にして反応が鈍い。何も考えず、もう一度かざした。

反応しない。

ここでようやく私は、この些細な非日常を実感した。どれだけ位置と角度を調整し、スマホを持つ手を乱高下させようと、改札は反応してくれないらしい。不格好にスマホをパカパカしている自身の滑稽さを恥じながら、スマホケースのスリットを確認してみると、定期券が失くなっていた。

どうやら、最寄り駅の構内か車両内のどこかに落としてしまったらしい。駅員に事情を説明すると、とりあえず改札を通過させてくれた。見つかったら連絡してくれるらしいが、私はそんなこと上の空でこう思っていた。

罰が当たった!

この日私は、誰でも経験したことのあるような些細な不親切を二度行っていた。一つは、最寄り駅に入る時の改札でのことだ。倫理に悖る極悪を働いた訳ではない。ただ、改札を越えるのに手こずっている人を、心の中で笑っただけだった。

二つ目も些細なことだ。車両に乗ってしばらくした後、停まった駅で降りていく人が切符を落としていったとき、私はそれに気づかなかったふりをした。地面に横たわる切符はその後、新しく車両に入ってきた人によって再発見されたようだが、その人もまたそれを自身の足元からどけるのみだった。

改札を越えられない人を笑い、落とし物による持ち主の損害に無関心だった私が、今では定期券をどこかに落としてしまったがゆえに、改札を越えられなくなっている。あまりにも美しい類比構造で、寓話的だ。きっとこれが「自業自得」というやつなのだろう。これを機に、私は美しい心を持ち、よりよい生き方をしていかなければならない――

そこまで考えて、思った。そんな訳がない。

私が人を笑ったから、人に親切を行わなかったから、それが何だというのだ。現状との間には何の因果もないじゃないか。奇遇を恣意的に解釈しているだけのことじゃないか。ただの不運だ。そう、私はただ運が悪かっただけなのだ。

そこまで考えて、思った。そっちのが嫌だな。

ただ運が悪かったがために定期券を失くしたのだとすれば、それがいかに蓋然性の高いものであろうとも、どれだけ理にかなったものであろうとも、理不尽に思えてならない。こんな不運が、こんな確率的損害が、あっていいはずがない。

やはり人間というものは、どうやら自身に矛先を向ける不運を過小評価しているようで、例えば交通事故に巻き込まれることを常に恐れながら道を歩く人は少ないだろうし、脳梗塞になって急死することを常に恐れながら生活している人はもっと少ないだろう。だから自分が不幸によって損害を被ると、都合のいい価値観を破壊された怒りで理不尽さを覚えるのだ。なお、さも一般論のように語っているが、私に確認できる思考は私自身のものだけなので、もしかしたら私が特別傲慢なだけなのかもしれない。あなたはどう思いますか? 私はこう思います。

ともかく、だから理由が欲しくなる。この損害が確立的事象によってもたらされた「不運」や「不幸」ではないことを示す理由が欲しくなるのだ。たとえ非論理的であろうと、感情的に飲み込めるものならば何でもいい。この損害が正当化される理由とあらば、何だっていい。だから私は、自分の中に因果応報を見出した。定期券の紛失は、私の不運によるものではなく、むしろ私の不道徳によるものだったのだ、と。

くわえて私が面白いと思うのは、「自業自得」「因果応報」のネガティブな用法における動作主の被害者性だ。「過去の自分がひどいことをしたので、今の自分がひどい目に遭う」というフォーマットは、「自分」を過去と現在に分割することで、一連の「ひどさ」の主体性・客体性をも同様に分割する。そうすると必然的に、「ひどいことをする過去の自分」を加害者とした、被害者としての「ひどい目に遭っている現在の自分」を演出することもできるのだ。むろん、これは捻くれた考え方なので、前者に着目する内罰的なものの方が自然なのだが。

それでも細身の女性を、大柄の男性が思い切り殴りつける瞬間など、ドラマや映画でだってなかなか見かけない。そこにはあらゆる条件、状況、歴史をすべて吹き飛ばしてしまうほどの、圧倒的なグロテスクさと禁忌が詰まっていた。

浅倉秋成『教室が、ひとりになるまで』

これは私の好きな一節だ。被害者は――正確には、「被害者っぽい人」は――強い。圧倒的多数からの庇護を受けられるからだ。そしてその圧倒的多数には、被害者それ自身も含まれる。だから自分で自分を庇護したい人は、自らを被害者っぽくするのだ。悲劇のヒロインかぶれである。ナルシシズムの発露、または防衛機制の発露によって、自らを被害者だと認識することは容易い。「自業自得」も、あるいはその手段の一つとなりうるだろう。少なくとも私の中では、そういう働きを演じてくれる。

日本古典文学には、よく「宿業思想」が登場する。これは、自分の辛い現状の原因を、前世で働いたであろう悪事のためだと捉えるような考えだ。これもまた、堪えがたき理不尽である「不運」の棄却や、または自らの被害者性への自己憐憫のために、人々が編み出した気休めなのかもしれない。

駅のホーム。人の流れの中をたゆたいながら群衆の後ろを歩き、階段を降りて、改札にスマホをかざした。

反応しない。

珍しいことではなかった。手帳型スマホケースの中に差し込まれている定期券は、往々にして反応が鈍い。何も考えず、もう一度かざした。

反応しない。

ここでようやく私は、この些細な非日常を実感した。どれだけ位置と角度を調整し、スマホを持つ手を乱高下させようと、改札は反応してくれないらしい。不格好にスマホをパカパカしている自身の滑稽さを恥じながら、スマホケースのスリットを確認してみると、定期券が失くなっていた。

どうやら、最寄り駅の構内か車両内のどこかに落としてしまったらしい。駅員に事情を説明すると、とりあえず改札を通過させてくれた。見つかったら連絡してくれるらしいが、私はそんなこと上の空でこう思っていた。

前世では、爪に挟まった耳クソをそんまま床にパラパラしたんだろうな……

『定期券を失くし、宿業思想の心地よさに気づいた話』

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