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仕事帰りのいちご大福

金曜日の仕事帰り。

木曜日を栄養ドリンク2本で凌ぎ、当日朝も栄養ドリンクでドーピングして体力的に辛いなぁというタイミングに、追い討ちをかけるかのように仕事で嫌なことがあって、ぽっかりした気分になった帰り道、21時前。

ついうっかりと、いちご大福を2つ買ってしまった。1つ350円程。

旅行でもない平日、いつもだったら「お菓子にしては高いな…」でスルーする額だというのに、そして、いちご大福がとりわけ好きというわけでもないのに(食べた記憶もあまりないのに)、よもぎとノーマルとでついつい2つ。

疲れとショックでぽっかりした時に視界に入るほんわかした和菓子の看板には吸引力があった。
まずは店前で足を止めてしまったところから、看板前で逡巡しつつも商品の和菓子を眺めて緑・ピンク・白と並ぶいちご大福に目を奪われるまでほんの数分、目を奪われてから購入意欲が湧くまではほんの十数秒。
いつも優柔不断なのに、疲れで思考が働いていないからとわかりつつも、こんな時ばかり決定が早いことに笑ってしまう。

最初はいちごとよもぎの組合せが珍しくて緑だけ買おうと思っていたのに、「よもぎを1つ…」と頼んだ後、注文を復唱された店員さんとの間に負けて、1つでは悪いかなと気がつけばノーマルのものも頼んでいた。
出費は気にするのに、何だかんだで押しに弱いのはいつも通り。

パックに入れられて並んだ緑と白のいちご大福。
色の取り合せが新鮮だなと袋の中を覗き込んでいると、ふと目に入ったパックの蓋にはられたシールの消費期限はその日当日。

時刻は既に21時を過ぎていて、これから電車に乗るというタイミング。帰宅は22時に近いだろうことは、いつものことだから想像ができる。

夜中22時にいちご大福2つは流石に食べないよなぁ…と疲れた頭でも思いとどまったことには安心しつつ、美味しそうないちご大福のおさまる袋を手にして、店員さんといちご大福には悪いものの「失敗したな…」という気持ちが湧いたことは否定できない。

・・・

電車に揺られながらぼんやりメールチェックをしていたら、まだ小学生の頃、母がいちご大福のいちごに美味しいイメージはなかったと言っていたのを思い出した。

何かの特集でテレビに映った、大きく真っ赤ないちごが顔をのぞかせるいちご大福を見て、これまでにない組合せだったから傷んだいちごを大福の中にいれて商品にしているのだろうと思っていたと。

母の言葉と画面に映る色鮮やかないちご大福とのギャップは大きく、そのインパクトもあって、大きく真っ赤ないちごが顔をのぞかせたちょっとお高めのいちご大福を、一度は食べてみたいなという気持ちになった。
いちご大福は、この時から好きというより、気になる・そわそわさせられる存在になった。

はずみで生じたちょっとした欲は、他のもっと強く鮮烈な欲に押されて心の底の方に沈みながらも確かに存在し続けていたよう。
大人になって自由に出かけられるようになってから、和菓子のお店に気ままに立ち寄ったり、和菓子のポップアップストアを見かけふらりと近づいたりして、数ある商品の中でもいちご大福を眺めていたことはあった。

眺めていたのは色合いのコントラストと見た目の愛らしさから、購入に至らなかったのはお値段が良い割に購入する勇気が湧くほど好きではなかったから。眺め過ごして春を終えていた。

それが、疲れて頭も回らない帰り道、ふと手にしているとは不思議なこともあるもので。

欲を止める理性はないが大きな欲に従う気力もないようなぽっかりした時、その状態に身を委ねれば、心に沸いて奥に沈んだちょっとした欲が浮上して自覚せぬままに叶えられるのかもしれない。

自覚に至らなければ後悔が残りそうであるも、食べ物には味の記憶が残るから、せめて味わって食べたいもの。
その時は分からずとも、味の記憶からいつか小さな欲が叶っていたことに気づくかもしれない。

とはいえ、なんやかんや言っても要するに衝動買い。

良いとは言い切れないものの、仕事帰りの虚無にちょっとしたプラスの効用を見つけられたのは良かったかもしれない。

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