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230905-230918 正義という風潮

 気がつけば日記というものを2週間も書いていなかった。

 このかん、神宮へ野球を観に行ったことはFBにアップした。その日、阪神が優勝を決めた。わたしにはそんなのどうでもいい。巨人が勝つのと同じぐらいどうでもいい。その前の週末には一人で新日の定演に行き、久石譲指揮でマーラーの5番を聴いた。エモーショナルだがキレの良い、すばらしい演奏だった。井上道義指揮で小曽根さんのモーツァルトの協奏曲というプログラムのチラシを会場でもらい、これ発売開始時にもえらく迷って10月には小曽根さんとアビシャイ・コーエンのを聴きに行くからとこっちはやめたのだけど、チラシを見たらまた迷って迷って迷った末に、井上道義は来季で必ず聴くし、障害学会もあるし、とまたやめた。後日、高校同期が“行ってきた、よかった”と書いていたのを見た。ステージというものは一回性なのである。そのとき、その場にしかないのである。

 新日の定演の前には、久しぶりのやめちゃんと久しぶりのpoemでコーヒー。どうでもいいことばっかり話してたような気がするけれども、なにかほっとする空気をもらった。

 やめちゃんと会った日の朝にはすでにだいぶ疲れて身体が重かった覚えがあるのだが、わたしはいつからこんなにくたびれているんだろう……。

 googleカレンダーによると、その前々日には四ツ谷三丁目にコーヒーを飲みに行ったみたいだ。その前日の夜は本郷三丁目でトラブル相談を受けたみたいだ。そうだった、帰りに駅の近くにできた台湾の麺料理の店に行ったのだった。

 先週は1号(娘)から呼び出されて歌舞伎町にも行った。コーヒー飲んだ。「ママはなんでパパと結婚したの~?」と質問された。1号は30も過ぎてるし、もうほんとの話ができる。そのころのわたしの真情を吐露したら、1号は大笑いした。1号の人生はこれからも続くのだと思うが、後から振り返るとそのなかでも今この時点は指折りのどん底だろうと思うが、そのさなかに笑っている1号が健気で切なかった。母はあなたではないので何もしてあげられない。

 立岩真也は、横塚晃一の言葉を引用しながら、それは「正義」ではなく「正義という風潮」にすぎないと書いている。唾棄すべき「正義という風潮」。
 録画してあったマルクス・ガブリエルの番組を見て、同じことを1990年代から言っていた立岩真也の凄さを思う。

 こんなとこかな。あ~、原稿やら編集やら仕事的なことはほぼすべてこの期間、ぶっちしてました。これから図書館行って、帰ってきたら手をつける。

追記:マルクス・ガブリエルの言葉を借りるなら、そんなものは「戦略」であって「道徳」ではない、ってことだ。

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