わたしの羅針盤は、わたしのなかに。
わたしのこころのなかには、そこに隠れてれば見つからないでいられる、安全な部屋みたいなものがあるみたいだ。
その部屋にいると、あたかも"守られている"気がする。
いつも"危険"がやってくると、その部屋にスポッと身を隠して、なんでもないフリをして、またそうやって、わたしはまわりに溶けこんだつもりで生きていく。
そうやって生きていたら、わたしは一生、だれかの人生しか生きられない。
人生を締めるときに、"わたしの"人生を生きたなんて、きっと思えない。
"アレ、わたしの人生って、もう終わりなの?わたし、なにをしたっけ?"
ずっと、まわりと同じ、ひとから理解されるように生きることに、じぶんの命というエネルギーを、時間を、注いできてしまったんだ。
そういう、ループを生きてきた。
だから今さら、未知の、まったく新しい世界へいっぽなんて、踏み出せる気がしないんだ。
わたしは、どんな人生を、生きたいんだっけ?
どんなところで、どんなひとと、どんな暮らしをしたいのか、もはや今となってはもうわからなくなってしまった。
怠惰と不安から選ぶ道の先には、ずっと変わらない"安定"。
でも、それは、ほんとうの"安心"とか、"平穏"ではない。
つまり、それが最期のときに、じぶんのこころを穏やかにしてくれるものではない。
冒険や挑戦は、生きている間はどんなに怖くて、どんなに逃げたい思い出でも、それに見合った対価として、一生のこころの安定を得られるもの。
それは、なににも変えがたく、またお金では決して買うことができない。
お金は大事だ。
この世界を生きることを、お金ぬきには語れない。
だから、お金のことは考えるな、なんてまったくナンセンスなことは言わないし、聞く気もない。
けれど、お金を使って、あらゆる言い訳をしていたら、きっと死ぬときに後悔するだろうと思う。
"こんなはずじゃなかった"のセリフが浮かぶのは、目に見えている。
そこにはない鳥かごを、あたかもあるように頭のなかでつくりあげた幻想を、じぶんの自由を縛る制限を、じぶんがじぶんにかけた呪いを、お金だけじゃないあらゆるハードルを、越えてみたさきに、それがなかったらどんなじぶんになっているだろうかと想像してみる。
そして、その足かせ、手かせを外すのは、意外とじぶんの固い意志ひとつという、なんとも単純でいとも簡単な、よっこらしょ的な解決策だったといずれ知ることができるのだろう。
まずはわたしの思考が、いつもとちょっと変わったことで、わたしの行動が、ちょっと変わり、そしてわたしの行く末も変わっていくのかもしれない。
だいじょうぶ。
必ずそのちょっとずつ踏みだすそのいっぽが、あたらしい世界を連れてきて、見たかった景色を見せてくれて、そうして少しずつ自信がついてくるものだから。
世界は、ほんとうに、わたしがわたしになることを、望んでいるだけなんだ。
そこは、愛しかない。
そこに辿り着くまでにたくさんの恐怖を味わい、苦しみを乗り越えてきたとしても。