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駄々文#13

 先日、運動不足の解消と交通費を浮かすために自転車で原宿まで行ったのだが、何度か行ったことがあるからと道を確認しなかったら存分に道に迷って、思いの外時間がかかってしまった。

その後立川で用事があったため、目当てのコーヒーを飲んで挨拶もそこそこに店を出たのだけど、どう頑張っても間に合わない。

パンパンに熱をもった太ももに鞭打ちながら、なんとか吉祥寺まで移動し、以前の職場の前に乗り捨てして、電車に切り替えて、予定より数十分遅れたものの、なんとか立川までたどり着いた。


 昨日はその自転車を取りに行ったのだが、ここで電車を使っては当初の目的、つまり運動不足の解消と交通費を浮かすためというのが台無しだ。

よって徒歩で取りに行くことにした。

私の家の最寄駅から吉祥寺までは6駅分、約2時間半の散歩になる。

ちょっと前まではしょっちゅう終電を無くして歩いていたから、別に大したことではないのだが、雨が降りそうだったから予定より早めに家を出ることにした。


 最近は集中してアルバム作品を聴く機会が乏しかった。

歩きながらとはいえ、2枚分のフルアルバムを聴くことができたのは嬉しい。

耳と心を常に新鮮な状態に保つために、1枚聴いたら10分ほどイヤホンをしたまま無音で過ごす。

その後、次の作品が聴きたくてしょうがなくなるまでイヤホンを外して街の音を聴く。


 せっかくだから、いつもと違うものの見方ができないかなと色々工夫しながら歩いていく。

車を目視せずに、エンジン音で見たり、人を性別や年齢、形状で判断せず、全て色の組み合わせだけで見てみたり、信号のアルゴリズムに思いを馳せ、なんとか色ではなくリズムとして捉えることができないかと考えてみたり。


目を閉じて歩いてみると、強風の前では触覚、聴覚、嗅覚がほとんど無力であることを知る。

生まれつき全盲の人でも杖をついて歩いているのを見ると、やはり漫画のようにはいかないらしい。

自分は、昔からよく安全なところで目を瞑って歩くということをするのだけど、必ず10歩前後歩いたところで底知れぬ恐怖が襲ってきて、目を開けるか上手く歩けなくなるかしてしまう。

おそらく、自分の位置情報みたいなものがロストしてしまうのだと思う。

居場所が固定されていれば、周りのものを覚えて把握することができるから、楽器の演奏等も可能だ。


 イヤホンを耳栓代わりにした状態で歩いていると、胸の辺りに低音が響いてくるのがわかり、しばらくして前に矯正した歩き方がまた元に戻ってしまっていることに気づいた。


世間の通説として、かかと着地が綺麗な歩き方とされている場合があるが、人間の身体は本来そのようにできていない。

ではどのようなある方が正しいかというと、裸足で地面を歩くときの歩き方、すなわちつま先着地である。


正確にいうと足のひらの親指と小指それぞれの付け根の下2点が先に着地し、かかとを含めた計3点で地面を捉える。

 かかと着地は足のバネを活かせないので、身体への振動をもろに受けることになり、負担がかかる。

近年靴の性能が良くなりすぎて気付きづらくなってしまっているが、一回裸足で歩いて感覚を確かめてみるといい。

最初のうちは変に力が入ってしまって、かえって疲れると思うが、だんだん慣れてくる。

イメージ的には、足を前に出すのではなくて、身体が前に移動するのを足で支えていくという感じだ。


 だんだんと胸に低音が響かなくなってきた時に、先日見た"低音を耳でなく身体で聴く"という内容の動画を思い出した。

耳という器官の成り立ちになんとなく思いを馳せてみると、より微細な振動=高音に気付くために発達した器官なのだろうと想像がつく。

低音というのはエネルギーが大きく、振動として身体で感じることができる。

おそらく、耳が聞こえなくても低音は感じられるだろう。

音楽的にリズムと言われるものはバスドラムやベースなど、低音楽器にその役割の多くが割り振られている。


音が耳だけで聴くものではないのならば、低音の波動を全身で感じながら演奏したり踊ったりすることこそが、気持ちのいいリズムを作り出す秘訣なのかも知れない。


 そんなことを考えながら、時に俳句を読みながら、実に有意義な散歩を楽しみ、我が相棒"グリーン先生"よ、乗り捨ててすまないと心中で謝罪したのち、小雨中の小雨に降られながら帰路についた。

 

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