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食べる私は人質

考える私は、食べる私を人質に取っている。逆もまた然りである。

『家庭料理という戦場』の中で、「暮らす私」と「(暮らしを)研究する私」は相互に影響を及ぼしあうために完全に切り離すことができないことを認識する必要がある、という件があった。家で料理をする時、脳裏に染み付いた一汁三菜の像から完全に切り離せないのもそうだし、研究者も研究に精を出すために食事を摂らなければいけない。研究対象が食である著者のケースはなおさら密接でややこしい。

『おいハンサム』という大好きなドラマのシーズン2が始まったので観始めた。三姉妹家族を中心としたコメディで、働くこと、食べることの何気ない場面をさらりと魅力的に描く。ただのお仕事ドラマでなく、グルメドラマでもない。そのどっちも毎日飽きるほど繰り返していくのが生活だよね、というリアルな手触りがフィクションの中で妙に際立っている。

父の会社の部下や取引先、娘たちの上司、同僚、元彼、お隣のおばさん、その娘さん。実にいろんな世代のいろんな人が、食べて働き、働いては食べる。毎話締め括りのメッセージは、教訓めいているようでいて押し付けがましさは無い。登場人物たちが皆、一家言を持つ面白い食べ手で、筋の通った人たちだからだろうか。

第三話『うな重問題とラーメン戦士。勝負飯と母の寿司』の中で、母の「自分へのご褒美って言葉嫌いなのよね」という台詞がある。分かる気がする。働く自分が稼いだお金で暮らすオフの自分に奢ってあげる、みたいなビジネスライクな切り離し方。これでまたたーんと頑張ってね、と自分で自分に圧まで掛けているような。ここにもそれとなく人質感。

基本的には、働くために食べているわけでも、食べるために働いているわけでもない(「働く」は賃金の発生する労働に限らない)。それぞれが否応なく接続されているということだけである。どちらか一方の大事さが極まる局面だからといって、一方を完全に無視することも出来ないのが人体の難儀なところ。

食べることというのは生きることだ、そして生きることは戦いだ。お前達も毎日それぞれなにかしら戦っているだろう。(中略)
ここぞという時の勝負飯だけじゃない。特別な食事でなくても、たくさん食べなくてもいい。毎日、当たり前に食べよう。

『おいハンサム!!』シーズン2 第3話

食べることは生きること、の言葉は手垢まみれを超えてツルツルでもはや無味無臭だけれど、生きることが戦いであるという認識は、案外忘れていた。勝ち負けのあるものだけが戦ではなく、世話焼きも防御も回復も戦。他人や外界と対峙していくその瞬間、考えたり食べたりするもう一方の自分は常に人質なんだけど、敵じゃない。味方陣営内では、まず当たり前に腹ごしらえ。そうしてやっと、どちらにも無理をさせずに戦える。

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