見出し画像

【連続小説】『2025クライシスの向こう側』4話

連続小説 on note 『2025クライシスの向こう側』
第1部 愛尊と楓麗亜の七日間

第4話 最後の晩餐と夢のつづき

さよならリチャード

リチャードは何も食べないし飲まない。
だから最後の晩餐とはいうものの普段の自炊と変わらない。
近所のスーパーで魚を買った。
赤ワイン2本と第3のビールを買った。
そしてパン。それから野菜。
一応ダヴィンチの
『最後の晩餐』によせたメニューにしてみる。
魚は鱈にしたので、洋風の煮込みを作った。
トマトと玉ねぎと鱈の切り身を煮込んでいく。
白ワインがなかったので、料理酒にした。
「赤ワインを2本? 普通魚には白でしょう」
とリチャードに軽いツッコミを入れられた。
でもローリエがあることは、
献立を考えた時点で思い出していた。
普段だったら絶対に
我が家の調味料の引き出しに入っていない。
いつだったか、
余りにも暇すぎて鶏丸ごと1羽から
スープをとってみたくなったことがあった。
そのとき、youtubeで
材料をメモしてスーパーで初めて買ったのだ。
当然その一度きりしか
ローリエなんて使わないからたんまり残っていた。

いい香りがしてきた鍋を覗き込みながらリチャードに質問した。
「屋上で僕が何度か啓示を受けてきたとかなんとか言ってましたよね?」
「ああ。ええ言いました。啓示というのか、導きですかね」
「……どっちにしろ、まったく僕にはそんな覚えはないんだけど……」
そう。まったく記憶にない。
「君が6歳の時です」
とリチャードが言った。
「6歳の時……小1……」
「君の母親が亡くなる数ヶ月前。彼女のベッドで」
「……母親のベッド……」
「何かを読み聞かせてもらいませんでしたか?」
「ああ……何度か子供用の聖書を読み聞かせてもらった記憶があります」
「うん。そう。……宇宙の話」
とリチャードが言った。
僕は、はっきりとその夜の記憶を思い出した。

母親はその年の夏にこの世を去った。癌だった。
両親を幼い頃に失っていた母親は、
引き取られた年の離れた兄の影響もあって、
日曜学校に通いクリスチャンになった。
しかし母の結婚相手であった父の家(つまり僕の実家でもある)は
居間に仏壇があるだけの無宗教だった。
なので、ほとんどキリスト教について
母親から聞かされることはなかった。
だが、母が亡くなる1年ほど前から
時折その子供用の聖書を読み聞かせてもらった。
母が小学生の頃から持っていたという古い本だ。
聖書の内容については、ほとんど覚えていない。
母にも、幼い息子へ何かを
伝え残そうという意図があったようには思えなかった。
どこかそれは、母が彼女自身に向けて
音読しているような感覚だった。
今思うと、自らの死期が迫っていることを悟り、
幼い子供や不器用な夫を残し
この世を去らねばならない無念さを鎮めていたのかもしれない。
「右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」とか
「パンを分け与えよ」とか、
断片的なフレーズがなんとなく頭に残っているくらいで、
前後のつながりも解釈もよく把握していない。
この有名なフレーズにしても、
母から読み聞かされたそのときに覚えたものなのか、
その後に本や映画で情報を得たものなのか定かではない。

ただ、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。
リチャードが言うように、
母が亡くなる数ヶ月前だったと思う。
その日、母が読み聞かせてくれた箇所は、
聖書自体の内容とはあまり関係がない。

そこから、僕というものは
どこかへ向かって動き出したのかもしれない。

もっとも、リチャードに出会い、
昨夜からの衝撃的な時間を過ごし、
今また彼によって記憶を掘り起こされたことにより、
どうやら「意識」がそう感じているらしい。

話を戻すと、
その子供用聖書の巻末に宇宙のことが書いてあった。
その日、その宇宙についての記述を母親が読んでくれた。
内容は、神が創造したであろう宇宙の大きさと
その大宇宙に含まれる地球について
科学的に書かれたものだった。
地球の大きさとか、星々の距離とか。
観測できている範囲で、数千億もの銀河があり、
銀河が集まったものが銀河群や銀河団になるとか。
その見える範囲の宇宙は、
おおよその直径が百何十億光年であるだとか。
リアルには想像つかないが、
子供心にもとにかくとんでもない広さだ
ということは分かった。
そのうちの一つの天の川銀河。
その銀河系には恒星が何千億個もある。
そのうちの一つの太陽を中心に構成される太陽系。
その中の三番目に太陽に近い惑星が地球。
その中の日本の東京の……この我が家。
太陽系の中にも
彗星と呼ばれる氷や微粒子でできた小天体がいくつかある。
これも太陽の周りを回ってるのだが、
太陽に接近したときに塵やらガスやらの尾を引く。
地球からもそれを肉眼で見ることができる。
それでほうき星と呼ばれている。


その周期が短いものでだいたい75年とかなんとか。
そのほうき星は一生に一度見れるか見れないか。

「母の話を聞きながら僕の頭の中にはあるシーンが浮かんでた。僕は遅刻しそうで懸命に走ってる。バーテンダーがシェイカーを振るみたいに、ランドセルの中で筆箱やノートや教科書をシェイクしながら。前方の歩道には蟻んこの行列が見えた。それに気づいて僕は飛び越えたつもりだったんだけど、踵で1匹の蟻を踏んでしまうんです。息も荒く立ち止まって振り返り、仰向けにピクピクと力なく足を動かす蟻を見た。蟻はやがて足も動かせなくなる。その蟻にもし仮に名前があったとします。僕はその蟻の名前なんて知らないし、どこから来た蟻でどこへ向かっていたのかも分からない。行列の中を歩いていた時のその蟻と他の蟻との違いすら分からない。静止したその蟻と僕は一緒だと思ったんです。その広大な宇宙の単位で考えたら。僕が死んでも誰も気づかないんだろうなと。生まれて初めて死について考えた。消えてなくなるということの意味を考えたら、恐怖という黒い闇がどんどんと膨らんでいった。宇宙のように巨大な闇となって僕を飲み込んでいった。その年の夏に母は亡くなりました。葬儀の時にお棺の中で目を瞑った母を見ながら、この夜のことを思い出した。消えてなくなる。無ということについて。でもあの夜感じた恐怖とは別の感覚があったんです。母親が消えてなくなることはなかった。実際に目の前の母親がもう抜け殻になってしまったのは理解した。でも僕の中には残っている。たった一人の特別な存在として。いや違う。本当は僕の中なんていう小さな場所じゃなくて、僕の知らないどこかにいるような気がした。きっとそれは母にとって、『ここ』での時間よりも幸せな時間のように思えた。『ここ』よりもずっと辛いことが少ない世界にいるような気がしたんだ」
リチャードは黙って聞いている。僕は話を続けた。
「このきっかけと言うのかな……とにかくこの出来事は僕の心の奥のほうにずっとあったんです。母のベッドで感じたこと、葬儀で感じたことがなんだったのか。大学生になったある日、僕は自分なりに答えを見つけたんです。『コンタクト』という映画を観た時だった。それは新作映画の公開に合わせて行われていたロバート・ゼメキス監督の特集上映の中の作品だった」
「ジョディ・フォスターが演じた主人公の科学者が、別の星の知的生命体とコンタクトする。だが、地球の常識ではコンタクトしたことを説明できない」
とリチャードが言う。
「さすが、リチャードさんはなんでも知っている」
「これも「この世のすべて」調べです」
「莫大な国家予算をかけたプロジェクトだったから、ジョディ・フォスターは裁判所で行われた聴聞委員会に出廷させられて国民の前で真偽を問われる。その席で、国防総省の担当者から『あなたが宇宙へ行った証拠がない』と問い詰められた彼女はこう答える。『経験したのは確かです。証明も説明もできません。けれど私の全存在が事実だったと告げています。あの経験は私を変えました。宇宙のあの姿に我々がいかに小さいかを教わりました。同時に我々がいかに貴重であるかも。我々はより大きなものの一部であり、決して孤独ではありません』と。実に簡潔に語っていました。僕が母から宇宙の話を聞かされて、母が肉体を脱ぎ捨てるのを近くで見つめて思ったことを。人間はちっぽけだ。そしてこの世界の果ては目に見えるものだけではない。きっとその先があると。きっと何かにつながっていると」
リチャードは包み込むような
優しい眼差しに見えるともない無表情で聞いている。
僕は興奮を抑えて静かに続けた。
「こういう物語が書きたいとスクリーンを見つめながらそのとき思ったんです。そのことをすっかり忘れてしまっていた」
「ほら。全部ちゃんと繋がってるでしょ? あなたは偶然ここまで来たんじゃない」
やっぱりリチャードの表情は優しげに見えた。

雰囲気だけでもと思い、
一応テーブルに食事を二人分並べて座った。
ワインも二つのグラスに分けた。
「母は痛いとか辛いとか言ったことなかったんです。でも最後はみるみる痩せていくし、子供心に可哀想だと思っていた。僕は母のことを甘えることのできない弱い存在だと思っていた。酷い話です。まだ6歳の息子に哀れまれるなんて、母も悔しかったと思う。僕がもっと子供らしく甘えることができたなら……。優しい気持ちから甘えられなかったんじゃない。甘えさせてくれない母親への僕の利己的な怒りだったんです。今思うと情けないというか、申し訳ないというか……気づいたときにその大切なものはそこにないという、ありふれた凡庸な話です」
そして僕らは(と一応)、最後の晩餐を開催した。

もう一人。
亡くなった母に
気の利いたことをほとんど言えなかったであろう
父親のことも考えた。
読書の鬼だった父。
自分の部屋の床が抜けそうなほど本をためこんでいく。
ウクレレをたまに弾きながら、
誰に聴かせるともなく
呟くように吉田拓郎や井上陽水の歌を口ずさむ父。
あまり喋らない父。
会社一筋の父。
母の死後、ずっと独身な父。
こうやって並べると
なんだかとても悲しい家族のようだけど、
居心地は良かったし、何不自由なく育ててくれた。
母からも父からもそれなりの愛情を感じてきた。
十分幸せな類の人間でした。
最後に父親に会っておくべきだったな。
なんて思ってみたりして。
とにかく
「父さん、母さんありがとう」と心の中で呟いてみる。
リチャードは僕の波動を受け取っているだろうに、
時折間をあけながら、料理やワインの味を聞いてくる。
ためしに、リチャードって優しいなあって思ってみる。
リチャードはスルーして、
「人類はとても使い勝手が悪い肉体という器に入って修行をしているんだ」
と言った。
より高い「意識」になるために。
僕は酔っ払って聞いてみた。
「信じてないわけじゃないんですけど、八日後に本当にすべて上手くいくんでしょうか? この計画を知ってるのは僕とリチャードさんだけですよね?」
「人類の大多数の人にとっての事実は、君一人ですけどね」
ああ。そう。
「無謀ですよね〜これ」
「でも君がそのことを具体的に「意識」して、口にすれば必ず上手くいきます」
「……そうですか。そうですよね」
そうなんだと思ってないわけではないんだ。
でもねリチャード。
きっとこのことは上手くいく。
しかし九日後に僕はこの世にいない。
死因は知らないけど。聞かないでおくよ。
でもやっぱり地球がどういうふうに救われるかを
見届けられないと思うと少し寂みしいよ。
「「意識」は永遠。見届けることは出来ますよ」
「そうですか」
と微笑んでみる。上手く微笑むことできたのだろうか。

その後の記憶がほとんどない。
程なく僕は酔い潰れて寝てしまった。
短い夢を見た。
父さんと僕とリチャードで食卓を囲んでいた。
母さんが茄子のはさみ揚げをテーブルに運んでくる。
テレビの画面にはフレアが映っていた。
父さんは、ウクレレをケースから出して、
ビールを飲みがら吉田拓郎の唄を歌った。
それだけの夢だった。つくづく僕は呑気で単純で凡庸だ。

ゆっくりと目が覚めていく。
眠りと覚醒の狭間。
初めてそんな曖昧な瞬間を感じる。
その曖昧なうっすらとした闇の中でリチャードの声が聞こえる。
「波を起こすんだアイソンくん。風を起こすんだアイソンくん。君ならきっと出来ます。さよならじゃない。はじまりです。私たちはずっと繋がっている。また会おう」

僕は身体を起こした。
朝の光が差し込んでいる。
机の上には服が畳んで置かれている。
ブルーのTシャツ。
赤いチェックのネルシャツ。
ブルーのパンツに白い靴下。
そしてデニム。

机の向こう側。
リチャードが座っていた場所にはクッションだけがある。
見た目には悠久に置き去りにされたように
人の気配を感じさせないクッション。
でも僕にはリチャードのへこみを感じる。
クッションにあるリチャードのお尻の形のへこみを
確かに感じる。
あるんだ。
確かにそこに。
リチャードのへこみが。
重力。
ああ、また涙が溢れてくる。
昨日から僕はどれだけ泣けば気がすむのだろうか。
次から次へと溢れ出る涙をそのままに、
僕はTシャツを脱ぎ捨て、
スウェットとパンツを脱ぎ捨てて素っ裸になる。
勢いよくバスルームの扉を開けてシャワーを浴びる。
涙とシャワーの湯が混ざり合っていく。
しょっぱいよリチャード、しょっぱいよ!
わかってるさリチャード。メソメソしてる暇はない。
しみったれた僕は排水口へと流されていく。

シャワーを終え、
リチャードのコーディネートした服を着た僕は、
目玉焼きを作りパンを焼いた。
ほとんど何も考えなかった。
目玉焼きとトーストを黙々と食べた。
それから食器を洗って、歯を磨いて、荷物を持って外に出た。
エレベーターには乗らずに階段を下りた。
そしてフレアの元に向かって歩き出した。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?