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気になっていたあの子の話


 暑さのせいなのか、月が変わったばかりなせいなのか、言い様のない気だるさが朝から絶えず私の身体を支配していた。
 やっとの思いで辿り着いた大学で一限目を受けながら、この後の講義をサボって帰ってしまおうか、とそればかり考えていた。
 そんな中、講義室の窓から目眩がしそうなほどに青い空を見ていたら、ふと彼女のことを思い出したので書き留めておこうと思う。

 当時高校生だったわたしには気になっている女の子がいた。
 同じクラスの演劇部だった女の子だ。
 彼女のクラスでの印象を語るなら、教室の隅に座っている大人しい女の子だった。友人と話す時には、明るく饒舌になるが、クラスの中では目立つことも主張することもしない。気にとめなければ日常の一部にひっそりと溶け込んでしまうようなタイプだった。

 そんな彼女のことが気になっていたとは言っても、別にそれが恋愛感情を含んでいるという訳ではない。
 ただどうしても気になる存在だったのだ。

 彼女と知り合ったのは、一年生の春頃だったと思う。
 わたしと仲の良い友人が彼女と話している場面に出くわしたのがきっかけだ。
 人の名前と顔を覚えるのはあまり得意ではないのだが、なぜか彼女の名前と顔は印象に残った。
 前髪を左右できっちりと分け、校則通りに低い位置で髪を一本に束ねていた。涼やかな目元は彼女の誠実さを表すようで、すっと伸びる平行な眉毛は丁寧に整えられていた。
 彼女の顔の中でも特に目を引くのが唇だった。唇は薄く、桜色でほんのりと色付いている。口角が常に上がっており、それが柔らかな印象を全体に与えるのだ。
 
 一年生の頃はほとんど関わりが無かった。
 友人がいる場にちょうど彼女が居合わせれば会話をしたが、その場以外で彼女に自発的に話しかけることも、彼女がわたしに喋りかけてくることも無かったように思う。
 名前も顔も分かってはいるので挨拶ぐらいはするけれど、それ以上踏み入ることはしない。そんな微妙な関係だった。

 彼女との関係に変化が起きたのは、二年生の頃に行われたクラス替えだ。
 文系を選択したわたしは、同じく文系を選択した彼女と奇しくも同じクラスになった。
 それを機に、わたしは彼女に話しかけることが増えた。
と言ってもわたしが気まぐれに「次の授業ってなんだっけ?」と聞いたり、演劇部に所属している共通の友人の話をたまにするぐらいで、そこまで親密な仲になったわけではない。関係が友人の友人からクラスメイトに変化しただけだった。

 しかし、それもある時までの話。
 わたしは気がついてしまったのだ、彼女の音読がとても上手いことに。
 前述した通り、彼女は演劇部に所属している。
 普段話すときは一般的な女子生徒と殆ど変わらない(癖なのかときたま芝居がかった口調になるときがあった)が、本読みになるとそれは一変する。
 普段のおっとりとした口調からガラリと変わり、抑えの効いた声で凛と読み上げるのだ。
 初めて聞いた時は本当に驚いた、あの大人しそうな彼女がこんな声を出せるのかと。
 それからというもの、教師が生徒に教科書を音読させる度に、彼女の番が回ってこないかとソワソワするようになった。
 その中でも特に楽しみにしていたのは、現代文の小説を読む時だった。小説特有のかたい文体や独特な台詞回しが、彼女の低く少し嗄れた声とよく合うのだ。

 そして、この音読をきっかけに、彼女に話し掛けるようになった。
 仲良くなりたいという気持ちよりも「彼女の特別になりたい」という気持ちが強かった。
 わたしの中で彼女が特別な存在であるように、彼女にも「わたし」という存在を認めてもらいたかった。今思えば、思春期特有の自己承認欲求だ。
 そして、彼女を見かける度に近付き、意味もなく繰り返して名前を呼んだ。その度に彼女は律儀に「はい」と反応してくれた。
 返事をしてもらうことが目的だったので、名前を呼べば、あとは満足だった。もはやお決まりになっていった「呼んでみただけだよ」を言うと、彼女はいつも呆れたよう笑ってくれた。
 そんなことを卒業まで続けた。
 卒業アルバムの隅に書かれた「私なんかに積極的に話しかけてくれるあなたは世界一物好きで優しい女の子だよ」という言葉がどれだけわたしを喜ばせたのか彼女が知ることは一生ないだろう。

 彼女は、今何をしているのだろうか。
 秘密主義のきらいがあるのか、彼女は自分の進学先を教えてくれなかった。
 卒業間近に、LINEを交換して欲しいとねだってみたが、「卒業式の日に覚えてたらね」と曖昧に微笑んだだけで、その約束が果たされることは無かった。
 共通の友人に頼めば、連絡を取ることもできるがそれはわたしと彼女の関係にそぐわない気がするのだ。
 何より「今」の彼女を知ってしまえば、記憶の中の彼女が薄れてしまうような気がして、怖かった。
 澄み切った青空を見上げながら、彼女のことを思うだけで充分なのだ。

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