見出し画像

今更、大江健三郎(3)

初期作品群(Ⅲ)

『幸福な若いギリアク人』『犬の世界』


前回、大江健三郎の作品のどういうところに魅力を感じるのかについて少し書いたのですが、今回もその続きです。

私は自分が好きだなあと思う作家に出会うと、その作家や作品についてもっと知りたくなり、作品を読みながら同時並行でいろいろな資料を読んだり、他の読者がどんなふうに評しているのかを調べる方です。
大江文学の愛読者は層が厚いので、その点資料や感想には事欠きません。

大江作品についての様々な紹介や評を読んでいて、何人かの方が触れていたことの一つに「大江作品を読むなら、できるだけ最初の方から順番に読んでいった方がいい」というアドバイスがありました。
大江健三郎さんは、自分の作品に繰り返し過去の自作の内容を取り込んだり、繰り返し同じモチーフを扱うことが多いので、途中から読み始めるとその面白さに気づけないことがある、というのです。

当初、私は大江作品を全て読むのは難しそうなので、代表的な作品だけを読もうと思い、『万延元年のフットボール』や『個人的な体験』などを先に読んでいたのですが、大江文学ファンの方たちのこうした意見に触れて、読み方を変えることにしました。
今回私が初期の作品からできるだけ順番に読んでみようと思ったのは、そのアドバイスに従ったためです。

このアドバイスが実に的を射たものだと納得できたのは、『幸福な若いギリアク人』と『犬の世界』を読んだ時です。

この2作は『大江健三郎全小説』3(講談社)に収録されている作品です。
(『犬の世界』は新潮文庫の『空の怪物アグイー』にも収録されています。)

『幸福な若いギリアク人』の内容は、北海道のオホーツク海に面した町の製材所で働く青年が、あることがきっかけで自分が本土と同じ日本人ではなく実は樺太から渡ってきたギリアク人なのではないか、という自分の出自に疑問を抱いて悩む話です。彼はギリアク人とはどのような人々なのかを確かめるために、ある施設に入所しているギリアク人のシャーマンである老人を訪ねに行きます。その老人は片目が見えないのですが、この片目の老人のエピソードが、後で別の短編『犬の世界』で再び登場します。

私は『幸福な若いギリアク人』を先に読んでいたので、『犬の世界』でこのエピソードが出てきた時にあの老人の話だということがわかりました。しかし、そのエピソードが『幸福な若いギリアク人』の時の描き方とは少し違っていて、その老人が片目を失った経緯には実はこのような事情があったのだということが明かされているのです。

その部分の事情の描き方を両作で比べてみると次のようになっています。

 老人はまたギリアク人にふりかかる不幸が魔物ミルクの仕業であって、それにうちかつためにはシャーマンが犠牲になるほかない、と語るのだ。
「戦争のあいだギリアク人は日本の憲兵のために特務機関で働いた。ソ連軍がきた時は、それで男みんな監獄よ。わしは監獄に三年いて考えた、シャーマンのわしがギリアク人みんなの不幸をひきうけてみたらいいとなあ。それで同じ房にいたギリアク人に、わしの右の眼を潰させた。翌日にはギリアク人はみな釈放よ」
 インディアンとよばれる青年は感動して。彼の民族のシャーマンの掌を握りしめた。

『幸福な若いギリアク人』(講談社)P113

 にせ・・弟が、酸のように鋭いところをあらわしたのは、僕が老オロッコ人の祈禱師のつぶれた眼について話した時だ。ぼくが、この老人はかれの少数民族のひとつの集落の首長としての責任感から、自分の眼をみずからつぶした、というと、それまでほとんど反応をみせなかったにせ・・弟が不意に濃い疑いの表情を浮かべて僕を見かえした。そこで、ぼくら夫婦が執拗にうながすと、かれはこういう意味のことをいった。
 ー 樺太の収容所でつぶされた老人の眼に祈禱の意味がこめられているにしても、それは、かれが自発的につぶしたのではなくて、祈禱師をかこむおなじ種族の人々が暴力的に強制したのだと思う。そしていったん眼がつぶされてみると、老人は祈禱師だから、それを訴えでたり怨んだりしなかったのだ。

『犬の世界』(講談社)P466~467

私は読みながら心のなかで、アッと驚きました。
大江文学ファンの方が教えてくれた、できるだけ順番に読んでいった方がいいというアドバイスはこのことを指していたのか、ということがわかったからです。
もし『幸福な若いギリアク人』を先に読んでいなければ、『犬の世界』でこの老人のエピソードを読んだとしても、ここまで深く感じ入ることはなくただの世間話だと思って読み流してしまったと思います。

この2作のエピソードの微妙な食い違いは一体何を意味しているのでしょうか?
最初の話ではこの老人は「ギリアク人」ということになっていますが、『犬の世界』ではオロッコ人ということになっています。また老人が片目を失った事情も異なっています。これは作者が書き間違えたのではなく、意図的にそう創られたに違いありません。

考えられる一つには、老人は自分が片目を失った経緯を自分の自尊心を保つために美化して話を作りかえた、と受け止められます。また一つには、ある逸話や伝承というものは時間が経ち人々の口を渡る間に少しずつ変化していくものだ、ということを意味しているのかもしれません。あるいは、物事の真実というものは、ある一面だけからは測りがたいものなのだ、という大江健三郎さんからのメッセージのようにも読み取れます。
いずれにしても、作者の大江健三郎さんが何らかの意図によってこれら二つのエピソードを微妙に変化させたことは確かだと思います。

また『犬の世界』についてもう一つ。
『犬の世界』に登場する兄とにせ・・弟は疎開中に離れ離れになったという経緯が記されています。それを読むと、これよりも先に書かれた『芽むしり仔撃ち』という作品を思い浮かべます。この作品に出てくる兄と弟です。『犬の世界』のこの二人の兄弟はもしかすると、疎開中にお互いはぐれてしまった『芽むしり仔撃ち』のあの兄弟なのではないか・・・などさまざまな想像を掻き立てられるのです。

大江作品には随所にこのような時空を前後する仕掛けが施されていて、物語を読めば読むほど何倍にも楽しめるようになっています。

『個人的な体験』は大江健三郎の名が世界的にも有名になるきっかけとなった作品ですが、この作品の主人公「鳥(バード)」もまたそうです。
いきなり『個人的な体験』を読み始めた読者は「鳥(バード)」って何だろう?と面食らうかもしれません。私がそうでした。
(村上春樹作品の「鼠」の登場とちょっと似ている気がします)

これは主人公のあだ名なのですが、実はこの「鳥(バード)」は、これより前の作品『不満足』という作品に菊比古という名の少年と一緒に登場しています。その小説の中で、若かった彼らは『個人的な体験』とは全く関係のない別の体験をしている人物たちなのです。
『不満足』の世界で繋がりのあった二人は、その後どのように歩みどんな人生を歩んで再び出会うことになったのか・・・読みながら何ともいえない感慨に浸ってしまいます。

『個人的な体験』は一つの独立した作品として読めば、これはこれで非常に内容の濃い作品なのですが、もし『不満足』を先に読んでいれば、より重層的に楽しめる仕掛けになっていると言えます。
こうした「人物の再登場」の方法はバルザックやジョイス、フォークナーの小説でも体験することができますが、実に巧みな物語の構築の仕方だと思います。

今回もまた大江作品の魅力について書いてみました。
私が、大江健三郎作品には次から次へと読みたくなってしまう中毒性があると思うのはこのような理由からです。

#大江健三郎
#幸福な若いギリアク人
#犬の世界
#個人的な体験
#不満足
#読書
#私の好きな作家


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?