『かがみの孤城』にみる不登校者の世界の見え方・見られ方


2001年WHOにより採択されたICFモデル(国際生活機能分類)によると、前段のICIDHが病気や障害をマイナスのものとして捉え一方向的に見ていた(Aという障害があるからBの状態になりゆえにCという不利が生じる)のに対し、同モデルは人の生活は相互関係の中に在り、「生きることの全体像を捉える」というのが大枠の概念だそうだ。ざっくりと要約すると——

①状態や現象は、環境と相互に関連し合う
②障害や健康状態は背景との相互関連によりプラスにもマイナスにも転換される
③人の生活(人生)を固定された点ではなく網羅された線として捉える

概ねの理解はこんなところだと思う。
つまり今置かれている状態がいかに苦難に思われようともそれ自体が苦難なのではなくて、苦難を苦難たらしめるシステムや環境こそが障壁である、ということだ。

……たぶん。

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 さて、『かがみの孤城』をついに読んでしまった。
 話題になった当時、不登校児のリアルが描かれているという評価を受けており気になってはいたものの、なにやらファンタジックな話だという先入観から読書を棚上げしていたのだが、昨年末ちょっとまとまった時間ができたため箸休めとして一気に読了した。主菜が三島由紀夫だったのでこれを選んで良かったと思う。
 
この物語は不登校という一つの状態に身を置く、時代を超えた中学生たちの物語だ。

 アニメ絵に中高生向けのライトな文体と、おそらくそのあたりの世代がターゲットなのだろう。その親世代も含まれるのかもしれない。

 これってファンタジー世界の物語として捉えると「言ってもフィクションだよね」に終始してしまうが、比喩として読み進めると意外に的を外してはいない。人は何かしらの比喩に関連する日常を生きているものだし、特に不登校者なんてのは本質的に内向的世界の住人であるものだから、何かしらの孤城に日々足繁く通っているのだ。人によってはそれがゲームであったりネットであったりNIRVANAであったりする。なにしろ暇だから。

 かくいう私も招待状こそ不達だったものの1993年組に属している不登校者である。ここにきて文末が過去の形をとらないのはいまだ私が不登校者であるからに他ならない。厳密に表すならば不登校から二十五年が経過した不登校者という存在である、ということになる。これの意味するところは千差万別であろうが、同様の経験をしている者からは概ねの賛同を得られるのではないだろうか。
当時の私にとって不登校というのものは『今、身を置いている状態』であって、大人になれば——中学生という立場の今が過ぎ去れば、過去の現象になるものと思い込んでいた。しかしのちに社会に出て気づくのだが、不登校という不穏な影は思いのほか永く伸びているのだということを思い知った。というよりも自分の影として焼き付いてしまった、永年付き纏う焼印であると今では受容することができる。
 それは履歴書の学歴欄を書いている時であったり、職場で隣町出身の同級生と出身中学の話になった時、あるいは不登校を取り扱ったドキュメンタリーが媒体から流れた時であったりといった、いわば向こうからやってくる受動的な状況であることもあるし、はたまた何かの折「いやー、実は中学行ってないんですよ。だから部活とかよくわからんのです」なんて自らぶっ込んだ一瞬間に生まれる、相手の戸惑いの反応に対する居心地の悪さだったりする。彼らにとっては不登校者というものはおとぎ話の世界の存在であって、マジで身の回りに存在しているなんて思ってはいないのだろう。
あるいはいるにはいるけど一生家から出ずにひっそりと生涯を終える気の毒な存在だとでも思っているのだろう。

 つまり「私のいる『こちら側』にはいるはずのない存在」ということだ。

 三年間まったくの無職状態(留年しまくりのモラトリアム大学生を含む)をすごした大人は少なからずいると思うし、本心はともあれそれに対してはわりと社会的な反応(無職の理由に対する同情・(再)就職しづらい社会への批判的態度)を示すものだと思うのだけど、これが子供という立場になると事態は一変する。そこには何かしら懸念の空気が漂い、その眉間には即座にかすかな動揺が刻まれる。あるいは「うん。いいんだよ。君はそのままでokだ」とわけ知り顔の寄り添いを演出してみたりする。
 しかしそのいずれもが不穏を孕んだ仮面であることを、子供たちは感覚的に察知する。自然に考えればストレスコーピングや対人コミュニケーションの方法をじゅうぶんに獲得していない子供のほうが集団に溶け込む術が未熟であろうことは明白なのに。子供の心は不適応を起こすはずがないという暗示にでもかかっているのだろうか。

 最近の話を例に挙げると、不登校YouTuberのゆたぼんくんに顕著だった。彼の置かれている『不登校』にとって、youtubeでの活動というのは非常に前向きでありたいせつな社会参加の一場面であると思う(彼の不登校が何に起因するのか・また環境因子がどう作用しているのか、は与り知るところではないので言及しない)。

 しかし世間の目は冷たく鋭利だった。彼の全体像など度外視に、自分好みの一側面(非難しても良い大義名分と書くのが適当ですね)のみを取捨選択し、少なからざる人たちが自ら補完し拵えた半透明の色眼鏡で彼(ら)をこき下ろした。曰く、義務教育期ですら忍耐できない人間はロクな人生は歩まないのだとか成長段階で我慢を放棄した人間のことなんてどうでもいいけどうちの子が普通でよかっただとか十年後の没落が楽しみだとか——まっとうな大人とは思えない罵詈の喝采だ。
 自分でない者に向けられたどこぞの馬の骨の意見とはいえ、不特定多数の人間にこういった刃を向けられるのって、1993年組としてはまー結構クるものがある。自分に焼き付いて離れない影に向けられた言葉なんだもの。これは前述の通り私の不登校がいまだ続いているということの一つの顕われであると思う。

話 は逸れたが物語は少々の感傷を伴いながらも希望の内に幕を下ろす。でも決してこれを希望や成長と結論しないでほしい。93年組としてはそう思わざるを得ない。
だって1985年から2027年——つまり作中の時間設定だけを汲み取っても、四十年以上不登校児の孤立や苦悩は解決されていないのだという事実が今なお子供たちの生きるリアルな社会を覆っているんだから。

余談:
ところで勉強というのは面白いもので——勉強に限らずだけれども——大人になってから小中高の問題集なんかに挑んでみると、覚えているのは見事に当時やったところまでである。一寸の狂いもなく、なんなら問題集のレイアウトまで記憶に焼き付いている。atとinの違いを父親に聞いたけれど明確な回答は得られず漠然とした理解になったしまったこと、二次方程式の解き方を聞く相手がいなかった事、担任教諭が三年間、食べてもいない給食費を月一で徴収に来てさっさとこの問題児の手を放したがっている算段が眼鏡の奥に淀んでいたこと、手放した後は一切のフォローアップもなかったこと。

恨んじゃいないが、給食費は返してもらいたいな。いつか返してもらうつもりだけど。

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