哲学的ゾンビ:ミクさんと対話(前編)
※トップ画像は、みんなのフォトギャラリーからお借りしました。鏡を見る猫ちゃん、可愛い。
はじめに
ようやく、こちらの続きを書けそう。
小難しいだけの話は誰も読まないと思うので、想像上のミクさんを召喚して適当に進めるつもりです。
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下校時刻の哲学的ゾンビ
ミク「で、呼ばれたと。あとでネギ奢ってくださいね」
――いいよ。今やそのキャラ付けもどこまで通じるか……前回は、メカバレしたミクさんは「哲学的ゾンビ」じゃないよ、って段までだったね。
ミク「わたし、外見や行動は人間に似せていても、一皮むけばAI搭載のアンドロイドですから。『哲学的ゾンビ』は、外面や行動だけでなく体の内部構造や脳内の電気信号まで人間とまったく一緒、なんでしたっけ」
――そして主観的な意識体験(クオリア)を持っていない。
ミク「……字面だけではピンとこないんですが……」
――そう思う。最初に、ある漫画を見てもらおうかと。
【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ(ダ・ヴィンチ・恐山氏)
「哲学的ゾンビ」とは何かについてわかるかもしれません。わからないかもしれません。(2015-09-22)
(上記漫画より一部抜粋・引用)
ミク「意味が分かると怖い話ですか?」
――間違っちゃいない。
ミク「右端が眼鏡の子の主観的意識で最初から真っ暗、左端がピンク髪の子の主観的意識でキャラメル食べたら消えて、でも、客観的に見ると中央で描かれた二人の日常は何も変わらず続いていく……」
――そう受け取れる表現になってる。
ミク「ファンタジーではありますけど、『哲学的ゾンビ』が存在したとしたらこんな感じに描写できる、てのは分かりました。でも……」
――何かな。
ミク「変わらない日常を続けられるなら、消えた主観的意識って何の意味があったんですか? そして、哲学的ゾンビってなんで出てきたんです?」
心と身体は一つか、二つか
――「心身問題」という、心の哲学で問われる話があって。17世紀フランスの哲学者デカルト……「我思う、ゆえに我あり」って言った人だけど、彼は心身二元論を提示した。人の身体は物質でできた機械、一方で心は身体とは違う独立した実体だと主張したんだ。
ミク「別々なら、心はどうやって身体を動かすんでしょう?」
――脳の最奥部にある松果腺などで、心と身体は相互作用すると考えていたようだね。それはそれで問題があるんだけど、今は置いておく。
ミク「わたしのAIプログラムは、天上の魂とは無縁な、突き詰めれば0と1の羅列なんですけど……」
――近現代の科学の進歩……特に脳神経科学の発展に伴って、物理主義の勢力が拡大していった。一元論とも呼ばれ、心の働きも含めあらゆる物事を物理的に考えようというのが物理主義。当然ながら……
ミク「心身二元論と物理主義は対立する」
――そうそう。端折りまくってるので、詳しい人からはツッコミ入ると思うけど。
それで、物理主義への批判の一つとして、1990年代に哲学者デイヴィッド・チャーマーズが持ち出した思考実験が「哲学的ゾンビ」だ。
ゾンビ論法(Zombie Argument)、または、想像可能性論法(Conceivability Argument)
1.我々の世界には意識体験がある。
意識、クオリア、経験、感覚など様々な名前で呼ばれるものが、「ある」という主張である。ここは基本的に素朴な主張である。
2.物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
現在の物理学では、意識、クオリア、経験、感覚を全く欠いた世界が想像可能であることを主張する。この哲学的ゾンビだけがいる世界を、ゾンビワールドと言う。
3.したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。
ゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には、意識、クオリア、経験、感覚が備わっているという事実がある。それは、現在の物理法則には含まれていない。
4.ゆえに唯物論は偽である。
以上の点から現在の物理法則・物理量ですべての説明ができるという考えは間違っている。
ミク「確認しておきたいんですが、クオリアって何でしょう?」
――クオリア(感覚質)は、たとえばイチゴの赤い「感じ」。波長630-760ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、人間が感じる「赤さ」。この感じる「赤さ」がクオリアの一種とされる。
心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう……(略)……この現象は主観内にのみ現れ、客観的な言語化や計測によるデータ化は行えない。
(クオリア - Wikipedia、赤い■の図も引用)
ミク「なんかよくわからない曖昧さが……あと、上記の論法でいうと、何かが想像可能であることと、それが実際の世界で成り立つこととは別だと思うんですが」
――ミクさんがそれ言う? まあいいや。上記の論法は要旨だけ抜き出して単純化してるんで、チャーマーズもこれだけで主張してるわけじゃない。「付随性」や「内包」など専門用語を使って論を組み立てている。
ミク「現在の物理法則では説明できなくても、将来的には物理的に説明できる可能性があるのでは?」
――それは否定できないけど、現時点では何とも言えない。チャーマーズは、物理主義では"原理的に"説明できないから「意識のハードプロブレム」なのだと主張してるけどね。
ミク「むぅぅ。なんだか言いくるめられた気がします……さっきの漫画に戻りますけど、二人の主観的意識が消えた後も、客観的には二人の意識に異変が起きたようには見えないんですよね?」
――うん。観察・実験して分かるような、言語化・数量化できる物理現象には何も変化が無い。彼女たちの主観的意識がどうなってるかは、外から見ただけじゃ分からないんだ。
意識と言う言葉は多義的に扱われがちなので、チャーマーズは意識を二つに分けている。物理主義で説明できる部分と、説明できない部分に。
機能的意識/現象的意識
a. 機能的意識
機能的意識とは、「人間が外部の状況に対して反応する能力」のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識であり、外面的に観測することができる客観的な特性である。心理学的意識とも言われる。
b. 現象的意識
現象的意識とは、「主観的で個人的な体験」のことであり、他者からは観測できない個人の主観的な特性としての意識である。これは意識体験、現象、クオリアなどさまざまに呼ばれるが、機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。
ミク「つまり、キャラメルを食べて消えてしまったのは『現象的意識』の方であって、日常生活を維持している『機能的意識』は消えずに残った。この言い方に準じるなら、クオリアもそうですね。現象的クオリアは消えて、機能的クオリアは残ったと描写されている。それが、哲学的ゾンビ……少しずつ分かってきた気がします」
――より一般的な言い方だと、現象的クオリアのみがクオリアと呼ばれるけどね……ん、どうしたの、何かニヤニヤして。
ミク「いえ、ちょっとした悪戯を思いつきまして」
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長かった……ここまでで、ようやく導入部分です。
思った通り書き切れませんでしたね。前後編になるか中編を挟むか、書けたら、ここにリンクを貼っておきます。
次回、ミクさんが思いついた悪戯とは……
(追記)
続きが書けたので、こちらに貼っておきます。
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