ファッションチェックは、ダサい人を見つけるためにするのではなく、お洒落な人を見て自分に活かすためにやるのが良い

正直私は、20代前半くらいまでずっと、他人の服装を内心ジャッジしていた。私に勝手にジャッジされた人、ごめん。

特に気になるのは色合わせ。
例えば、最近近所で見かけた例では水色のコートに真っ赤なマフラーをしている女性。
水色に赤とは。合わない。私からすると、吐きそうな色合わせ。

子どもの頃から、他人の服の色合わせのみならず、街中の看板、建物のデザインなど、自分が美しいと思えないものが視界に入ると、そのたびに気分が悪くなっていた。
けれど、20代半ばに差し掛かるころから、こういった「私の美的観点からするとおかしなもの」を見ても、うまく脳のメモリから消去することができるようになった。大人になってきて脳が安定してきたのかもしれない。

今は、変な服装をしている人を見かけても何も思わないようにすることができる。
一瞬視界に入って変だと感じたら、その後、「なぜ変だと思ったのか、どうすればマシになるのか」などと色々と考えずに、「変だ→今見たものを脳から消去→その後そっちを見ない」という行動様式を自然に取ることができるようになった。
「こうしたらいいのに」とこちらが勝手に考えても、物事は変らないし、人生の時間には限りがあるのだからそんな事を考える時間と脳のリソースが勿体ないと思うようになって、そのリソースを自分にとってもっと有意義なことに振り向けることにした。
果たしてそれができるようになってはじめて、他人が何を着てても、本人が選んでるんだからなんでもいい、どうでもいいと思うようになった。

今は、街中で人を見ていても、お洒落な人だけを、注目して、見ている
だから、今は、私が他人の服装について言及する時は、それがいいと思っている時だけだ。

考えてみれば、ファッションとは、見た目で他人を格付けする下種なものでもある。
「ファッションは楽しくあるべし」とはもちろんだが、服装で他人からの評価が下るのは避けられない。
もしダサくても、よっぽど親しくない限り、誰もわざわざダサいとは指摘してはくれない。
陰で、あの人、ダサいよね、って言われるだけ。
だから、ダサくならないように自分で気を付けるしかない

見た目といった、皮相なことにかかずらわされるのはバカらしいが、この世に生きて、社会生活をしている限り、誰しも多少は装いには気を使わざるをえない。
お洒落で目立つのはいいけど、ダサくて目立つのは何としてでも避けたい。
私はいまだに、「とにかくダサいと思われたくない」という気持ちは根深く残っている。


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