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有か無か

こんにちは。ドラムの髙木です。
今回の記事、人によっては不快な印象を受けるかもしれません。
ご覧になられる方は「そういう考え方もあるかあ〜」と寛容な心で受け止めてください。


あなたは「今のまま生き続ける」「生まれる前の『無』の状態になる」かを選べるとするならどちらを選択するだろうか?
なお、『無』になる場合「元から生まれることのなかった存在」として過去が書き換えられるものとし、そこに苦痛は伴わないものとする。

僕はこの問いに対して後者派だ。つまり「無」になれるならなりたいと思う人間だ。別に希死念慮があるわけではない。自殺はしんどいし、誰かを悲しませることはしたくない。

でも、人生は長く楽しいことや幸せなことばかりじゃない。
むしろ、苦しく辛い時間のほうがほとんどだと僕は感じている。
それならば、"生きる喜びを得られないかわりに生きる辛さも感じない状態"になりたいと思う瞬間がままある。

相対的にそのほうが幸せなのではなかろうか?


こんなことを考え始めたのは、僕が将来結婚して子供を授かった時のことをぼんやり想像してみたのがきっかけだった。

「僕のもとに生まれた子供はどんな人生を歩むのだろう?」

想像を巡らせていけばいくほど全くいい予感がしなかった。

想像の過や理屈は省くけど、おそらく自己肯定感を十分に育ててやれるほどの家庭環境を用意してやれないだろうという結論に至った。
自己肯定感の低さは外部とのコミュニケーションに直接影響がでる。人との接触が怖くなるためクラスでは孤立しやすい。故に社会性のない人格が形成されていく。
きっといじめられることもあるだろう。最悪の場合、犯罪に手を染めるかもしれない。
もしかしたら運命的な出会いによって人生が激変するかもしれないが、現状の手札で考えると上記のような悪循環に陥る可能性が高いだろうと思う。

そして、本当にそうなった時に我が子はきっとこう考える。

「自分が生まれてきた意味はあったのだろうか。」

多くの人間がぶつかる疑問だと思う。僕もその一人だ。気持ちはよくわかる。
平均して80年間、死ぬまで「生きる業」を背負わされてしまったことに気付く絶望感と悲しみはあまりに深い。

そんな思いをさせるくらいなら、そもそもこの世に新たな命を生み落とさない方が我が子のためなのではないか?
『無』のままでいさせてあげたほうが良いでのはないか?

このような疑念が浮かび上がってきたことが始まりだった。


この子供側の視点を自身に当て込んだ時、新たにひとつの疑問が浮かんだ。
「自分の親はどう考えていたのだろう?」

一般的に子供を作る動機は

「子供が欲しかい(親の願望)」
「はやく孫の顔が見たいと言われたから(祖父母の願望)」
「デキ婚(親の都合)」

が相場だろう。しかし、圧倒的に親側の都合や願望が占めている。
果たしてそこに「子の人生」はどれほど加味されていたのだろうか。生きることの不自由さを理解した上で、我が子を幸せにしてみせると覚悟して、我が親は僕を産んだのだろうか。

その正しい答えは本人に聞かない限りわからない。
ただ、僕の性格が親の意思を暗示しているとも思う。
そう考えていくと、とても悲しく惨めな気持ちになる。
結局、僕が「業」を背負わされた理由は親のエゴでしかなかったのだろうから。


『無』になりたいが、残念ながら生まれてしまった以上生き続けなければならない。辛いことが多い世の中でせめて楽しく過ごすために音楽を続けているのだと改めて思う。

けど、それは所詮「生きている時間を苦痛じゃなくするための誤魔化し」でしかないとも考えられる。

じゃあ「生きること」「産まれること」って何なのだろう。

答え探しはまだまだ終わりそうにないなあ。

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