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ゼーレVSネルフ総括的解釈-彼らの対立に違いは存在するか?-

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 キール議長率いるゼーレとゲンドウ・冬月らの対立には、何がどう違うのかと議論する傾向があるが、このような議論においては「対立しているから絶対に違いがあるはずだ」「どちらかが正しくどちらかが間違っている」「目標に向かった計画性ある計画だ」などという暗示に憑かれ、むしろこの前提に疑義を抱くことをしないために、その議論自体が袋小路に迷い込むことになるのではないかと思っている。「本当に彼らの計画に違いはあるのか?」「本当に目標に向かった計画性のある計画だったか?」というような単純素朴な疑義、この一見意味の無いように見えるこの問いを立てればそれは解決すると思う。結論から言ってしまえば、彼らの計画それそのものには実際には違いなど存在しない。問題なのは意志の問題と、その主導権だけである。ここではそれを明るみにしてみたいと思う(『超人・碇ユイ』のノートの延長線上にある考察なのであらかじめそちらをご参照いただければ幸いです)。

(1)ゼーレの本性

 まずはゼーレ側に見られる計画性の無さと杜撰さからその本性を曝け出しておこう。彼らは世界を裏で牛耳る権力を持つ存在とされながら、実は補完計画を実践する上ではその無力さを露呈している。ゼーレ(あるいは人類補完委員会)からの突き上げをゲンドウに忠告する冬月だが、ゲンドウは彼らをして何もできない連中だ、とたかをくくっていた。ゼーレ側においてもキールが、ゲンドウでなければ計画を実行に移すことはできなかったとそれを自ら証明してしまうようなことを言っている。これは彼らが、計画を実行することそれ自体においては無能であるゆえに、計画に対して完全に自分たちのコントロール下におくことができない有様を露呈しているといえる。そもそも計画自体、ゲンドウが提出したものをゼーレが承認する、という形で計画がスタートしているという時点で、ゲンドウが彼らの趣向を熟知しており、見事に彼らの気に入るような計画の提案を作り上げたから実行に移された、ということがわかるであろう。これを簡単に言えばなんというか。それは子どものあやし方、喜ばせ方を熟知した親(ゲンドウ)が、子ども(ゼーレ)が手を叩いて喜ぶようなことを手取り足取りしてあげている状態となんら変わりが無いのである。

 ゼーレは自分たちでは何もできないがゆえに、自分たちの企て(その企ての立案ですらゲンドウ任せ)通りに行動する手駒を欲する。だからゲンドウおよびネルフそれ自体を監視し、事あるごとにその行動に口を挟んで介入する。エヴァンゲリオンの出撃要請についてもいちいち口を挟むあたり、その有様はまるで、自分たちが自分の考えに従って計画を実践しているのだ、と実感だけでも得たいようである。そしてこの、事あるごとに介入してくる様は、後半に向かっていくにつれて、計画にズレが生じている、あるいはゲンドウの報告に嘘や欺瞞が生じている、という形で怒りを帯びて顕になってきていた。これは、子どもが自分の思い通りにならない親を相手に、ぎゃあぎゃあ言っているのと何も変わらない。それでも何もできないから、怒りを顕にして解任を仄めかしたりしながらも資金だけは出し、全ての使徒が葬り去られるまでゲンドウに依存する形をやめられなかったのである。

 ゼーレは、ゲンドウが計画にズレを生じさせている様をして、ネルフとは本来自分たちの計画を実践するために用意された組織であるのに、それが一個人の占有機関と成り果てていると野次を飛ばし、自分たちの手に取戻し、エヴァシリーズともども本来の姿にしておかなければならない、とあたかも意味深さをかもし出すかのような発言を繰り返す。そしてカヲルを囲んで、ゲンドウをして、「神に等しき力を手に入れようとしている男」だといった次に「我らのほかにパンドラの箱をあけようとしている男」だといい、「そこ(パンドラの箱)にある希望が表れる前に箱を閉じようとしている男」だといった。意味深いように見えてこれが意味するところは至って単純である。要するにこれもまた、彼らが自分の所有物を思い通りにするための所有権を主張し、取り返そうとしているだけなのである。神に等しき力を手に入れる資格はゲンドウではなく、自分たちにこそあってしかるべきなのだと、これを強調しているだけなのである。そして、ここで明きらかなのは、神に等しき力を手に入れようとしているという点で、ゲンドウも自分たちも本質的には全く違わず、計画を主導する至上権を争っているに過ぎないということを自ら暴露しているということだ。

 このように見れば、彼らが「自分たちの希望が具象化されている」と称して指し示している全ての謎的要素、これらは自分たちの思い通りに希望を満たすための所有物としてそこにナルシスティックな愛着を抱いているのであり、またそれが全ての人間の希望であると酔い痴れ、驕り高ぶっているだけであることがわかるだろう。また、ゼーレはカヲルをターミナルドグマへと突入させるわけだが、カヲルはゼーレが自分たちの所有物だと証したものの一つであるサルベージされたアダムの魂を宿した存在者だ。「ヒトは愚かさを忘れ、同じ過ちを繰り返す」「自ら贖罪を行わねばヒトは変わらぬ」「アダムや使徒の力は借りぬ」「われわれの手で未来へと変わるしかない」といいつつ、自分たちの願いを託すと称したカヲルは、明らかに使徒(タブリス)である。このあたりはすでに言語表現に概念崩壊が生じているので矛盾だらけであるが、この矛盾もまた、これまでの単純明快な傾向をもとに解釈すれば、「思い通りにならぬ自律的なアダムや使徒の力ではなく、自分たちが自分たちの所有物に命じて実行させることで、自分たちがそれを実行した」という満足感を得たいだけだということを露呈させていると見做せるだろう。

 また、このことは、サードインパクトそれ自体はどうにでも起こせるということも明らかにしている。使徒を使っても予定を繰り上げて実行に移せる、使徒によってもサードインパクトは起きる、そして極めつけは、あれだけ怒りを見せていたにもかかわらず、ゲンドウがずらしていったやり方に便乗しても実行に移せるということである。補完計画実践の直前に、ゲンドウ本人が自分が知っている「ゼーレのシナリオ」(自分で提示したのだから知らないわけがない)とは違うと述べているにもかかわらず、彼らの手を使ってでも自分たちが実践しようとしている、これはロンギヌスの槍の放棄とか、あるいはエヴァの数が足りないとか、エヴァ弐号機を無残な姿にしたとか、成り行きでロンギヌスの槍が帰ってきたとか、アダムを取り込んだリリスが出現したということにも言えることであるが、結局のところ、これは彼らが望んでいた「宗教的儀式の形式」へのナルシスティックなこだわりに過ぎなかったのである。

 計画性も実行力も無いのに自信たっぷりに、あたかも自分たちの希望が全ての人類の希望であるかのように言い、その計画を実行する至上権を要請し、全ての謎要素を自分たちの所有物であるとして所有権を喚きたて、権力を振りかざし、自分たちこそ神に等しき力を手に入れる資格があるとして、人間と世界を変革させる資格があると主導権を主張するゼーレ。その実それは、その所有物の自己管理も処理もできない禁治産者であり、手取り足取り他人任せにしなければなにもできない、無能で無力な弱者だった。そして「具象化された神は不要」と称しつつも、その言葉に反して神と自己とを同一視するという形で神を具象化(偶像化)してしまっており、悪性極まりない自家醸造式のナルシスティックな熱情に駆られ、世界を自己のナルシシズムに適合するように変貌させていたのである。

 もともと一神教における神に関する概念、および自己の本質が神と同義であると知るということは、定義しがたい不可能なものとしての表現がされていて、偶像崇拝とナルシシズムに対する否定であった。しかし安直に自分を神と同義であるかのように見做している有様を露呈させているゼーレは、かえって自己が神の偶像となっており、神概念の元来の働きと全く矛盾し、その偶像を崇拝して熱情に駆られているという点で、弱者が徒党を組んだ、集団的ナルシシズムの団体なのである。それはまた、ユング心理学的には、無意識が意識によって制御されておらず、自己の在り様を省みようとしない点でヌミノースな元型に憑かれた状態であって、メンバー全員が自我肥大症を引き起こして際限の無いヒュプリス(傲慢)に陥っているということに相違ない。彼らの発した言葉そのものが、自身でその言葉に酔い痴れているという状態を顕にしていたわけである。

 私はゼーレを弱者といったが、この表現は集団で徒党を組み、最終的に情報の裏工作によって、本部以外の全てのネルフ支部からのMAGI制圧を行えた(彼我兵力差5:1)とか、それが赤木リツコの「第666プロテクト」によって失敗した後に日本政府に何らかの工作(首相がゼーレメンバーかどうかは不明)を仕掛けて、明らかに過剰とも言えるほどの戦略自衛隊の圧倒的な軍事力を持って、ネルフを制圧することに乗り出したことをさしても、強者とは呼ばないという意味で用いている。なぜならこのあからさまに過剰で手加減のない暴力的な行動は、明らかにゼーレという弱者の、これまで当然認められるべきとしてナルシスティックな愛着を抱いていた謎要素の所有権や計画の主導、および自分たちがこだわっていた宗教的儀式の形式を、いいようにコケおとしにしてくれたゲンドウという強者に対して抱いた、溜まりに溜まったルサンチマンからの憎悪あるいは復讐感情が爆発したものだと見做し得るからである。

 ゼーレにしてみれば、これまで存分に利用しようと思っていた自分たちの所有物に過ぎない連中が、自分たちのナルシスティックな満足の対象とならなくなっている(つまり余剰物になっていた)。自分たちの思い通りにならないが、それに頼らざるを得ないという状態にあったゼーレは、それを排除したいができない、排除したい欲望に対して自らに禁止を課していたようなものだった。「欲望を増大せしめる秘訣は限界を課さんとすることだ」とはサドの言だが、使徒を全て葬り去った後、ゲンドウらが用済みになった途端に、ゼーレは自らに課していた排除の禁止(あるいは戦略自衛隊に課していた禁止?)を解除した。彼らネルフは、所有物の中から「有用」でなくなった「呪われた部分」とされ、取り除かれるべき剰余として抽出され、利得なしに蕩尽される(徹底的に破壊・殺戮される)対象、つまり生贄として聖別されたのである。ゲンドウをさして「ゼーレへの背任、その責任をとってもらうぞ」「死は君たちに与えよう」とキールが言っているように、このようにすることで、自分たちのナルシシズムを傷つけてきた代償を払わせようとしたわけである。

 暴力に熱狂する狂気的な老人集団!それが彼らの本性である。描き出されたのは、暴力と殺戮の、血みどろの地獄絵図でしかない。そして彼らはサードインパクトを「閉塞した人類が再生するため」の通過儀式だといった上で、それが「滅びの宿命」であり、同時に「新生の喜びでもある」といい、それは「神も人も、全ての生命が死を持ってやがて一つとなるため」だといった。また、結局最後までなし崩し的で、ネルフを完全制圧することもできず、量産機によって、邪魔だてした弐号機を無残な残骸に帰さしめた後に飛び出してきた初号機のシンジを依り代にしてその衝動に任せるという方法しか取り得なかったが、儀式を決行したゼーレは、「エヴァシリーズを本来の姿に」戻し、自分たち「人類に福音をもたらす真の姿に」するといった上でそれが「魂の安らぎでもある」と言っている。ここには人間全体の「死」を絶賛し、全ての破滅させて安定均衡状態を希求する虚無への意志しかない。

 彼らの言う新生・再生、そして魂の安らぎとは、「甘き死よ来たれ」の歌からわかるように、「死」を淫蕩なイメージと結びつけた狂熱的な躁宴(オルギア)の中で、この世に生れ落ちた非連続体としての個体生命(出来損ないの群体)から、連続体(完全な単体としての生命体=アダムとリリスの融合物)へ回帰し、さらに完全なる無に帰することだと見做せるため、あくまでも形式的だが、グノーシス主義神話に見出される福音の到来による復活や安息などにまつわる要素を当てはめることができる。キールが最後に満足げに「始まりと終わりは同じところにある」というのもまた、これは聖書やグノーシス神話で多用される表現(「アルファ・オメガ」ともいう)であり、「万物の始まりでありその終わりであるところは一致している」という意味で、「万物の父」「完全なる人間」「始まりも終わりも無いもの」(『真理の福音』より)としての至高神を表すものだと言えるので、魂の故郷とされる「ガフの部屋」への回帰が「プレーローマ」あるいは「新婦(婚礼)の部屋」への回帰と同義だと見做せなくも無い。しかし、これは明らかに形骸化しているといわざるを得ない。なぜなら彼らは、神概念を履き違え、安易に神となる資格があるといわんばかりに自己の在り様を省みないという点で、人が神になるということがどういうことなのかを知らないし、そしてそれがまた神が人になることでもあるということを知らない、グノーシスにおいてもっとも重要であるこの現存在姿勢にまつわる要素を全く欠いており、安直なペシミズムに陥って全人類を巻き添えにした死を望むという点で、これらのことを知らないことすら知らないので全てが意味盲になっているのだ。

(2)ゲンドウの本性

 すでにゼーレの項でも若干述べているが、ゲンドウの本性もゼーレと同様である。ただ、それを洗いざらい暴き出すには、ユイの願いと冬月の思惑にまつわる要素との相関を見る必要があると思われる。冬月とゲンドウとでは、一見ゼーレとの会話の中で、双方共に口を揃えてゼーレに対して異論を述べているように見えるので、彼ら二人は同意していると思われるかもしれないが、実は冬月だけが、ユイの意志を正確に把握しており、ゲンドウのほうはユイの意志そのもの意向からはまるで外れていたといえる要素があるからだ。ゲンドウの思惑がゼーレとなんら違いが存在しなかったということが明確になれば、そのことも自ずと解けてくるだろう。

 まずTV版と劇場版の相互比較でゲンドウの言葉だけを拾い集めてみよう。彼は補完計画とはなにかと論っているところからして「違う、虚無へと還るわけではない。全てを始まりに戻すに過ぎない。この世界に失われている母へと還るだけだ。全ての心が一つになり、永遠の安らぎを得る、ただそれだけのことに過ぎない」と言っている。この言葉からして、劇場版のゼーレとの最後の会話において、冬月の台詞を除くとすれば「ヒトは新たな世界へと進むべき」というゲンドウの台詞は、そのまま「全てを始まりに戻す=この世界に失われている母へと還るだけ=全ての心を一つにして《永遠の安らぎ》を得る」ことをさしていると言える。これは劇場版のほうでもレイを前にして「不要な体を捨て、全ての心を今ひとつに」と言っていることと対応しているであろう。そして、ゲンドウにとってはそれがエヴァシリーズを用意した理由であると言っているのである。

 これをさして、一体、ゼーレと何が違うと言うのだろうか。既に述べたとおり、ゼーレはサードインパクトを起爆剤とする補完計画をして、「滅びの宿命=新生の喜び=閉塞した人類を再生するための通過儀式=神もヒトも全ての生命が死をもってやがて一つになる=魂の安らぎ」と見做している。ゲンドウはこのようなゼーレに「死は何も生み出さない」と反発しているが、表面上は確かに、これはゼーレの意志が「虚無への意志」であり「死への希求」であって「完全なる無」への回帰、すなわち全ての破滅による安定均衡状態を望んでいることへの反発であるかのように見做せる(同時にこれによってもゼーレが虚無への意志をもった集団であると言うことが立証されよう)。ユングは《完全なものからは何も生まれない》と言う昔の賢者の謂いを用いて完全性について述べているが、ゼーレにしてみればサードインパクトによる全ての「死」によって連続体へと回帰し、虚無へと還ることがそもそも《完全なる人間》への再生・新生であるから、何も生み出す必要は無いのである。ところがゲンドウの言葉を見てもわかるが、その意味を見直してみれば、言葉の表現方法が挿げ変わっているだけで何の意味の違いも存在しないのである。見やすくするために以下のようにまとめたものを、対比的に記しておこう。

 このようにきれいさっぱりと、彼らの思惑がまるで等しいものだと言うことができるのである。どうしてこのように表すことができるのか、信じられないという方のために、以下のような考え方を持ち出すことでこれを立証してみたいと思う。精神分析学者、あるいは深層心理学者のなかには、人間は「母の胎内から生れ落ちた時に、既に一度死を体験している」と主張する人がいる。フロイトなどは、赤子の、生まれてすぐに生誕を告げる呱々とした産声をして、それは誕生したことに喜びを告げるものではなく、むしろ胎内の羊水から空中に放り出される窒息感と死の恐怖の苦しみを告げている声だという。また、ゲーテはヴェニスの黒いゴンドラをして「揺りかごであると同時に棺である」と描写しているが、これはゴンドラの形だけでなく、ヴェニスを囲む水をして「羊水であると同時に湯灌(=死体を棺に納める前に湯水で拭い清めること)である」という等価のイメージをかもし出すためのものでもあるという。このような表現は、赤子が母の胎内から生れ落ちた時に母から切り離されることで、《連続体》から、《非連続的な個体》となって、この世の宇宙(コスモス)へと投げ出され、そしてこの世の生を終える(=つまり生れ落ちた時に死を体験しているとすれば二度目の死)を迎えるまで《連続体》への回帰願望(=羊水・胎内回帰願望)を抱き続けるイメージなのである。更に、このヴェニスつながりで言えば、トマス・マンの『ヴェニスに死す』をヴィスコンティが映画化した際に、オーストリアの作曲家G.マーラーの音楽を用いているが、マーラーの別の有名な曲「交響曲第二番『復活』」の最終楽章には、合唱によって「生きるために死ぬ」という言葉が歌われる。母の胎内から生れ落ちたことが一度目の「死」による「生」であるならば、二度目の「死」は生まれる前の「生」(存在の連続性)へと復活を遂げるための「死」であると見做し得るのである。これは「この世に生まれる前(あの世)の生の終わり(=あの世での死)」と「この世で死んだ後(あの世)の生の始まり(=あの世での生の復活)」の一致を見ているということであり、同時に「万物の始まりであり終わりであるところは一致している」という意味とも一致していることになろう。これがカヲルがいうところの「生と死の等価値」にも関わっているといえる。ここからもまた、あくまでも形式的にであるが、グノーシス主義における《子宮 》、《復活》の概念を用いることが可能である。ただし当然ながら、この世に生あるうちは、あの世のことなど不可知であるということは言うまでも無い。ここから見出せることを順序だてて説明しよう。

1.「全てを始まりに戻す」=「滅びの宿命」

 キールが「始まりと終わりは同じところにある(=万物の始まりでありその終わりであるところは一致している)」と言うところからして、「全てを始まりに戻す」ということが、結局のところゲンドウが自分で別のところで「時計の針を進めることはできる」(22話)と言っていたように「全て(万物)を終わりへと進める」ことに等しく、それは実際にはこの世の「滅びの宿命」へと時計の針を進めることと同義である。

2.「この世界に失われている母へと還る」=「新生の喜び」

 「偽りの継承者にして黒き月よりの我らが人類、その始祖たるリリス」とあり、カヲルが人間をさして「リリン」と言っていることから、実際のリリスとリリン(インクブス、スクブスなどの淫夢魔)が母と子の関係にあるように、エヴァの世界観ではリリスは人類の母であり、人類はリリスの子である。アダムと融合したことで巨大化したリリスへと還ることは、母へと還ることである。『Death & Rebirth』のエンディングテーマ『魂のルフラン』で「私に還りなさい、生まれる前に」と歌われている通り、この母たるリリスからこの世に生まれたことで一度死を経験して非連続体(劇中では『出来損ないの群体』と呼ばれる)となった人間が母へと還ることは、ゼーレにしてみれば「全てを始まりに戻すこと」=「滅びの宿命」(二度目の死)による「この世に生まれる前の『生』=この世で死んだ後の『生』」、すなわち連続体への再生・新生(復活)の喜びを意味することに等しい(現にアダムとリリスの融合体である巨大綾波レイが登場してもゼーレらは何も拒んでいない)。

3.「不要な体を捨てて全ての心を一つにする」=「全ての生命が『死』をもってやがて一つとなる」

4.「永遠の安らぎを得る」=「魂の安らぎを得る」

5.「新たな世界へと進むステップ」=「閉塞した人類を再生するための通過儀式」

 これは描写を見れば全く同義である。ゲンドウに対してゼーレらは「ヒトの形を捨ててまでエヴァという方舟に乗ることは無い」といっているが、「人々を真の姿に」と称して、ヒトの形を失わせていることには、ゲンドウが口にしていることと全く変わり映えが無いので、彼らがヒトの形を捨てることについて反対しているわけではないことを意味している(彼らが反対しているのは「エヴァを方舟とみなすこと」にある(後述参照))。「死」については上述したとおりである。要するにゲンドウが「死」は何も生み出さないと反発しているのは、『死』や『滅び』といった悲観的要素を含んだ言葉を避けているだけであり、事実上ゼーレが言うところの通過儀式と同じで「この世の生の死」であり、人類の胎内回帰であることには変わりが無く、ゲンドウの場合はこれを肯定的な言葉の装いで「新たな世界へと進む」と言っているに過ぎないということである。「~だけに過ぎない」「~だけだ」という言葉を多用しているゲンドウには、これ以上の意志など無かったと言える。

 さて、これ見よがしにゼーレとゲンドウには全く違いが無いと述べてきたわけであるが、ここで極めつけに、冬月とゲンドウの、ゼーレを前にして同じ考えを持っているかのように見えて、実際にはユイの意志を挟んで考えを異にしていたと思しき要素がある、ということを明らかにして、ゲンドウの本性についてを締めくくろう。冬月はゲンドウが地下へと去った後、事の成り行きを説明するナレーターのようになっているが、彼の発言に「人類の生命の源たる、リリスの卵、黒き月。今更、その殻の中へと還ることは望まぬ。だがそれも、リリス次第か」明らかにゲンドウと考えを異にする発言が見られている。母へと還ること、魂の故郷である「ガフの部屋」へと還ることを今更望みはしない、というのは明らかにゲンドウの意には無い。ただ一点、冬月に弱いところがあったとすれば、彼がリリスを前にしては、自分の存在などリリスの意向次第で、自分の意志ではどうすることもできない塵芥のごときであると思っていたということくらいであろうか(これは事の成り行きに身を委ねているものの謂いである)。そして冬月はユイから直接、彼女の願い、その意志を聞いている。

 ユイと冬月は「ヒトが生きていること」について、明らかに「この世の宇宙(コスモス)において、人間が在って在ることに対してどうあるべきかの現存在姿勢」を述べているのであって、ゲンドウのように、永遠の安らぎ(魂の安らぎ)を得ようなどとというような、惰弱な虚無への意志などではない。むしろ、冬月のいう「ヒトは生きていこうとするところにその存在がある」を鑑みるに、このユイの考えから伺われる精神姿勢には、考えただけでもぞっとするような、まさしく最も恐ろしい葛藤の中におかれる地獄のような絶望的状況であろうとも、それに負けないで「生きていこうとするところをもつ心」という刻印こそが、ヒトを存在者たらしめている存在の根拠なのだとする意志が見られる。そしてそれを示し得るのは、この世の宇宙の中で、永遠に孤独の寂寥感に包まれるという、自身を絶望的状況という名の「刑苦」の中におき、その重荷を引き受ける限りにおいてのみであるとしているように見受けられるだろう。それこそが救済をもたらす(=生きていこうとさえ思えばどこでも天国になりえる)のだということを永遠に示す「ヒトの証」となりえる、それが彼女の願いであり、彼女が自らの魂の意志を、未来永劫無限に実践しえるエヴァ(無限に生きていられる器)に宿した理由なのである。ユイが彼女の魂をエヴァに宿すというのは、エヴァにその意志を刻印として与える(要するに判子を押して「人の証」としての表現と意味を持たせる)ということだったといえるのである(リツコがエヴァをしてただのコピーではなくヒトの意志がこめられているといっていることも想起されたし)。

 これを見てもわかるように、ゲンドウの「永遠の安らぎを得る」という目的は、明らかにユイの願い(あるいはそれを代弁する冬月の意向)とは違う。ユイの願いを自分の願いと重ねているようには見えても、冬月とは違って、その意向を履き違えていたのである。実際冬月とともにゼーレの前で協調しているように見えても、なぜ冬月の言うことに反発していなかったかといえば、冬月のいう「生きていこうとするところ」が、ゲンドウには仏教で言うならば悩み多き現実世界である此岸ではなく、永遠の安らぎを得る彼岸であり、その場の冬月の言葉はそのようにも読めるからである(もちろん冬月の意向ではない)。ユイの願いを履き違えて見かけだけそれを自分の願いと同じだとしていたゲンドウは、自分でも自分が人から忌み嫌われる人間であると、疎外された形で自己を崇拝していた。その自己崇拝のために、ユイをその偶像に見立てて執着しているだけだったのであり、彼もまたゼーレと同じく自己と神とを同一視してナルシスティックな熱情に駆られ、自己の在り様を省みなかったという点で、やはり偶像崇拝とナルシシズムの否定である本来の神の概念とは矛盾していたのである。では全く同類なのに何故その至上権をめぐって対立し、血みどろの戦争を繰り広げたのか。皮肉にもこれは、ほとんど関係の無いようなところで葛城ミサトが「シト=ヒトだったこと」について口にしていることがぴったりである。

ミサト「ただ、お互いを拒絶するしかなかった、悲しい存在だったけどね」

(1)と(2)の結論

①ゲンドウとゼーレはどこまでも同類項である。

②ゼーレとネルフの表層の対立は、深層においてはユイ(+大目に見て冬月)VSゲンドウ・ゼーレであった。

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