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碇ユイの精神姿勢②-超人・碇ユイ-

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 本ノートは、『新世紀エヴァンゲリオン』の影の主人公碇ユイが歩んだ道を、ニーチェ哲学的に考察するものである。私見では、結論から言えば、碇ユイはニーチェ哲学における超人への道そのものの過程を経て最終的に超人となったと見立てられると確信している。超人への道を端的に示しているのは、『ツァラトゥストラかく語りき』の「三態の変化」である。そこでは〈畏敬〉を内に蔵する〈精神〉が駱駝→獅子→小児と変化していく過程が描かれている。ニーチェにおいて「〈精神〉・〈自我〉」は「〈魂〉・〈身体〉」に基礎づけられるものであり、この「三態の変化」は前者が後者のうちに統合される過程であり、そこで「〈精神〉・〈自我〉」はその統合過程のための機能としてのみ肯定的に扱われている。これは、新約聖書が「〈魂〉・〈身体〉」を「〈精神〉・〈自我〉」に基礎づけているのを逆転させた価値観である。駱駝→獅子→小児は、超人を目指す者が何を為すべきかを教える象徴的表現なのである。まず、駱駝は本来的な自己にとって他在である全て、即ち本来なら軽蔑すべきものである超越性に従属する者たち全てに対して、あえて〈畏敬〉をもって飛び込み、それに対して徹底的に服従し、自らその他在・超越性を担わんとする在り様を示す。そこで自己はあえて非本来的な自己を形成したということを意味する。その次の段階である獅子は、駱駝が徹底的に服従したことから転じて、本来的な自己以外の全ての他在(非本来的な自己・「〈汝まさに為すべし〉という大いなる龍」に象徴される超越性一切を含む)を呑み込まんとする。獅子は〈畏敬〉を本来的な自己に向けており、全ての他在は、獅子に呑み込まれることで獅子に融合する。それは超人への道を目指すものの一個の「〈魂〉・〈身体〉」のうちに全ての他在が呑み込まれ、同一化するということである。このことは、超人となるものが〈カオス(渾沌)〉を蔵すると言われていることと関連している。〈カオス〉はその動詞〈chasko(大きく口を開ける)〉と結びついており、それ自体大きな口を開いた深淵的な空虚を意味している。この超人への道をゆく者が大きく口を開き、その〈カオス〉のうちに全ての他在が呑み込まれるというわけだ。そしての到達点である小児は、全ての超越性及びそれに属するものが解消された、「純粋な内在性としての世界ないし生を肯定する者」の境地である。この境地において達成されるは、「〈魂〉・〈身体〉」に基礎づけられる新たな人間の証の創出であり、すべての他者が一個の〈身体〉の内に統合された単一者の創出であり、主体/客体の区別のない純粋な〈全体的人間〉であり、以下のような特徴を持った〈神〉である。

 私達は神の概念から最高の善意を除去しよう、――それは神の品位に相応しくないものだからである。同じく私たちは最高の智慧をも除去しよう、――神を智慧の怪物のみなすこの狂愚をおかしたのは、哲学者たちの虚栄心だからである。神は能う限り彼らと平等視されるべきであったのである。否!神とは最高の力――これで十分!全てのことがそれに引き続いて生ずる、それに引き続いて生ずる――「世界そのもの」が!(フリードリヒ・ニーチェ『力への意志』§1037)

 まさしく全ての超越性が解消されることで純粋な内在性としての世界が出来することを説明するアフォリズムである。ついでに補足すれば、これは超越性を解消せんとする意味で肯定的に述べられている〈力への意志〉ないし徹底的な能動的ニヒリズムの頂点ということになり、そこで達成される神=超人が〈力〉のみで十分と言われるのは、上記の意味での〈力への意志〉の〈への意志〉が消えることを意味する。

 ここで碇ユイが歩んだ道をたどってみよう。碇ユイはまず駱駝の〈精神〉と同様に、あえて〈畏敬〉をもって本来的な自己にとっては軽蔑すべきものであるあらゆる超越性にとびこみ、それに従属することに徹底した。それは女性、科学者、恋人、妻、母、そして何より全て〈人間〉的であるべしという義務に自ら飛び込んだということである。

 ついでユイは、無限に生きていける〈身体〉であるエヴァ初号機との接触実験において、自らの〈身体〉を溶融させ、その初号機の〈身体〉に自らの〈魂〉を宿した。これは碇ユイがそれまで従属していた超越性を自ら内在性の内に解消したということを意味する。この時点で、ユイの〈精神〉・〈自我〉は、〈魂〉と共に初号機の〈身体〉のうちに統合された。これは、ユイの「〈精神〉・〈自我〉」が己の蔵する〈カオス〉に呑み込まれ、またその〈カオス〉が初号機の〈身体〉に宿されたといえるだろう。これまで従属してきた超越性一切に対する、獅子の〈精神〉の如き反抗が、この接触実験から始まったのだ。しかしまだ全ての超越性は解消されていない。超越性は従属させようとする作用を及ぼす。獅子はそれら全てを否定し、反抗するものである。それは「母であること」を望む子どもでさえその対象となる。エヴァ初号機が暴走する際に流れるBGMの題名は“THE BEAST”、つまり「獣」であるが、その暴走の在様は、まさに自らにその作用を及ぼす超越性ないし他在(わが子でさえも)を飲み込まんとする猛獣である獅子、或いは〈カオス〉のごときであろう。そしてこの獅子、ないし〈カオス〉がその動詞〈chasko〉の意味するところのように大きく口を開くのは、最終的に人類補完計画の実践、サードインパクトの誘発において、「ガフの部屋」が開かれると言われるときである。全ての人間の肉体が崩壊し、魂がリリス(+アダム)へと収集されていく様は、エヴァ初号機及びそれに搭乗する碇シンジが「ガフの部屋」を開くことによってであった。補完計画がエヴァ初号機を依り代として行われたことを想起すれば、寄り代となった初号機の〈カオス〉が口を開いて呑み込むということになる。碇シンジが願ったのは、自己及び全ての他在の否定であった。これは全ての人間が主体/客体の区別をなくし、内在性に没入して融即状態となる、即ち連続的になることを出来させた。彼が碇ユイに「何を願うのか」と問われた際の水の中に溶けこむような描写は、まさに内在性への解消を表していた。超人は海とたとえられことがあり、人間という汚れた河を呑み込むものだと言われるが、これはまさに内在性への解消の言い換えであり、まさに全ての人間がLCLの海に溶融したということに該当するだろう。なお、このような有様は、象徴的には『哲学者の薔薇園』の「太陽(=人間)を喰う緑の獅子(=カオス)」と同じである。

『哲学者の薔薇園』の「太陽を喰う緑の獅子」

 この時点で、碇シンジも、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の「三態の変化」でいうところでの、獅子から小児へと転換する境地までたどり着いたとみなし得る。

 しかし、碇シンジは最終的にその純粋な内在性としての世界のうちの生を否定した。再び個体性を持ち、他者のあることを欲し、超越性としての世界のうちに生きることを願ったのだった。これは、かつて小児の境地に達しながら再び〈人間〉であることを欲した、〈没落者〉と呼ばれるツァラトゥストラと同様である。碇シンジの場合は、最後まで融即を拒否した惣流・アスカ・ラングレーに引きずられて〈没落者〉となり、超人失格となったのである。これに対してユイ=初号機はそのまま純粋な内在性としての世界のうちを生きながら、いずれ全てが滅びゆく宇宙へと飛び立った。彼女は無限に生きていけるエヴァの〈身体〉のうちに主体/客体の区別がない状態で蔵されており、既に時空を超脱している。そしてこれこそが絶対的な自由を手にした小児の境地であるが、小児の境地は、ツァラトゥストラの〈没落〉と併せて考察すれば、その絶対的な自由から抜け出る自由のない絶対的な不自由の状態に置かれるというパラドックスを孕んでいる。彼女には〈没落〉する自由がない。超人はそうした状況を、時空を超脱して永遠に肯定する者の謂でもある。そして、先に述べたように、達成される超人とは「〈魂〉・〈身体〉」に基礎づけられる新しい人間の証の創出を意味する。ユイはまさに以上の超人の要件を満たすことに成った、というのが私の解釈である。

 なお、ユイの歩んだ道筋をこのような超人への道として解釈した場合、「人類補完計画」を実行することに向けて働いてきたネルフ・ゼーレ他の人々は、碇ユイがその超人への道を達成するためにのみ労働してきたに過ぎないという位置づけになる。それは〈没落者〉ツァラトゥストラが「愛する」といった、以下のような人々に該当するがごとくである。

 我は愛する、労働し発明する者を。この人は超人のために家を作り、超人のために大地と獣と植物とを備えんとして、しかく為す。故に、この人は自らの没落を冀う。(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』)

 ネルフ・ゼーレ他の人々は、いかになんと御託を並べようとも、結果的に超人となった碇ユイ=初号機を前にしては、彼女が超人となるための労働力として自らの力を奉仕したにすぎない。つまり超人創出のために〈没落者〉であることという超越性に従属していたことからは免れ得ないのであった。そして彼らは、ニーチェが嘲笑した「身体を軽蔑する者たち」のごとく、破滅無視でその身体を捨て去り滅び去ることに突き進んだに過ぎなかったのである。

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