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メイベル・コリンズ”Light on the Path”より――神智学(人智学)の根本原則から本来読み取れることの検証

ソクラテス:「してみると、『汝自身を識れ』ということが、克己節制するということ(σωφροσuνη:思慮の健全さ[=正気]を保つこと)だとすれば、これらの人たちは、その技術だけに頼っている限り、誰も思慮の健全な者はいないということになる。」
アルキビアデス:「ええ、そうなると思います。」
(プラトン『アルキビアデスⅠ』)

本ノートは、GA266a「超感覚的な認識を独自に得るための諸条件」第1講にある、メイベル・コリンズのLight on the Path(道の光)についてのシュタイナーによる引用と説明が、高橋巌訳『秘教講義3』では書き換えられてしまったことを受け、本来何が言われているのかの検証・解釈を行うものです。高橋先生は『秘教講義3』のあとがきで「本書の内容に出会えた時は、無条件に感動できた」と仰っています。しかし、それが本当なら、最も肝心な部分であるメイベル・コリンズのLight on the Pathからの引用とそれに対するシュタイナーの説明を次のように書き換えてしまったことに説明が付きません。

どんな神智学の教師も、次の根本命題に従うことなく、教え諭してはならないのです。
⑴来るべき戦いに参加せよ。そのときお前は戦士でなくても、戦わなければならない。
⑵お前の内なる戦士に向き合え。お前の戦士を戦わせよ。
⑶戦う時にはその戦士の指示を待て。その指示に従え。
戦いに参加するのを嫌い、自分の中に引きこもる人は決して「戦士」になれません。(高橋訳『秘教講義3』p.20-21)

「なぜ書き換えなければならないのか?」「これはそもそもどういう思考の形態化なのか?」と疑問を抱かざるを得ない改ざんです。この改ざんされた文に現れてしまっているのは、筆者としては、それを述べるのはまことに心苦しいのですが、前後の文とは全く相いれない、「ユリウス・カエサルの内に存在したのと全く同じ、自分本位で煽動的なタイプの大変に時代遅れの思考」です。なにが高橋先生を誘惑してこのような書き換えをさせてしまったのかは、恐らくメイベル・コリンズとシュタイナーの真意に耳を傾ければ自ずと理解できてくると思います。ここでは、この高橋訳を読んだ際の私たちの側に省察のゼロ度(素朴さ)が生じないようにしたいと思います。私にも拡充的な解釈が含まれますし、異論が多くあるであろうことは承知しています。しかし、少なくとも捏造や改ざんなどではなく、根本原則の記述に基づいた解釈を提示したいと思います。これを見た上で改ざんされた個所がいかに深刻な問題を含んでいるかを省察いただければ幸いです。

Kein theosophischer Lehrer sollte jemals ein Wort aussprechen, ohne Beobachtung des Grundsatzes:
⑴Tritt zur Seite im kommenden Kampfe, und so du auch streitest, sei du nicht der Streiter.
⑵Späh' nach dem Streiter; in dir laß ihn kämpfen.
⑶Seine Weisung erwarte zum Kampfe; ihr folge.
Niemand kann zum «Streiter» werden, der für sich selbst kämpft, der nicht zur Seite tritt.

いかなる神智学の導師も、根本原則を遵守(観察)せずに教えを述べるべきではありません。
⑴来るべき戦いでは脇に寄り、戦うにしても、まるで戦士ではないかのようにせよ。
⑵〈戦士〉の出現を待ち受け、汝にて彼に戦わせよ。
⑶戦いの際には〈戦士〉の教示を待ち受け、その教示に従いたまえ。
誰であれ、独善的に戦う者(自分本位で戦う者)、脇に寄らない者は、〈戦士〉に変容することなどできません。(私訳)

【解説】
①根本原則1にてTritt zur Seite im kommenden Kampfeと言われ、これについてシュタイナーが解説しているところがポイントです。コリンズの英語の原文ではStand aside in the coming battleとなっています。英語原文から訳したジェフ・クラーク氏の訳『道の光』ではこれを「追いかけてくる戦いに加わるな」と訳しています。ただし、本当はコリンズの原文の意味でも、シュタイナーがドイツ語でTritt zur Seiteと訳した場合の意味でも、これは全く戦わないということを意味しているわけではありません。「まるで戦士ではないかのように戦え」と言っているのですから。「独善的に戦う者・脇に寄らない者と同じようにはその戦いに「加わるな」」、ととるならジェフ・クラーク氏の訳はまだ理解できます。「脇に寄る者」「まるで戦士ではないかのように戦う者」、カッコつきの〈戦士〉(※1)は、シュタイナーの説明との関連を考えれば、「脇に寄らない者」「独善的に戦う者(自分自身のため・自分本位に戦う者)」の対極ですから、それはちょうどプラトンの『アルキビアデス』にて、ソクラテスがアルキビアデス(※2)を相手に『汝自身を識れ』の格言の真意として説こうとした「克己節制する者」=「思慮の健全さ[=正気]を保つ者」(※3)、「他者を顧みる者」である、ということをイメージすることができるはずです。さらに、その究極としてはシュタイナーにとって最も大事な「キリスト衝動」ということに関わってくるということは、予測できるではないでしょうか。つまり、この時点で、「戦いに際して脇に寄る者・まるで戦士ではないかのように戦う〈戦士〉」に変容することとは「或る状況に際してキリストならどう行動するか、自らの内なるキリストに問い、行動すること」と関連があると予想することができるはずではないでしょうか。

※註1)根本原則1のStreiterと根本原則2のStreiterは同じ戦士ではありません。前者は「独善的に戦う戦士、脇に寄らない戦士」であり、後者は「まるでそういうふうには戦わない〈戦士〉」です。コリンズの英語原文では、前者は小文字で始まるworriorであり、後者は大文字で始まるWorriorとなっていて、それとはっきりわかるようになっています。ドイツ語では名詞はいつも大文字にする習慣ですので、英語のようなことはできませんが、文意から違うものであることは十分に読み取ることができます。従って、ここではシュタイナーが説明している文と同様にWorriorの方を〈 〉を付けて訳しました。

※註2)アルキビアデスという人物は、自分本位な日和見主義者です。幼い頃から傲慢・横暴で、自らの優れた才能を愛し、凡人である他者を見下す一方で、自らよりも優れていると判断した人物に対しては並々ならぬ尊敬の念と情熱を注ぐ、その実態は自分本位な関心しかない自惚れ屋というような人物です。つまり小文字のworriorに相当する人物です。

※註3)「健全」の意味に当たる英語のhealthは、Holistic(ホーリスティック)と語原が同じ(holos)であると考えると、キリスト衝動の意味により近づけることができるかもしれない。

②根本原則2の最初にSpäh' nach dem Streiterとある文は、コリンズの英語原文ではLook for the Worriorとなっています。ジェフ・クラーク氏の訳では「「戦士」を探し求めよ」となっています。しかしこのLook forはむしろ「期待する」「待ち受ける」という方の意味でしょう。シュタイナーのドイツ語訳もそちらの意味をとっています。nach 3格 spähenでnach 3格 Ausschau haltenということで、「…の出現を待ち受ける」ということです。そして根本原則3のerwarten 4格の表現は、この根本原則2のnach 3格 spähenの説明と同じことを別の表現で表した形になっています(英語原文ではLook for とTake)。つまり「〈戦士〉の出現を待ち受ける」と「〈戦士〉の教示を待ち受ける」は実質同じことです。この2と3の前半部分で実質同じことは、どちらの根本原則の後半に関しても続いています。「汝にて彼に戦わせる」ということと「彼の教示に従う」こととは同じことを別の仕方で表現しているということです。それはコリンズの英語原文の、この2と3に続く根本原則4でそれを裏付けることができます。

4. Obey him not as though he were a general, but as though he were thyself, and his spoken words were the utterance of thy secret desires; for he is thyself, yet infinitely wiser and stronger than thyself.
〈戦士〉には、将軍に従うようにしてではなく、〈戦士〉があたかも汝自身であるかのように、そして〈戦士〉の発する言葉が汝の秘めたる望みの発露であるかのようにして従え。なぜなら〈戦士〉は汝自身であるが、汝自身とは比較にならないほどの智慧と力強さがあるからだ。(メイベル・コリンズ:Light on the Path・第二部より私訳)

この「〈戦士〉に変容すること」について、私は〈キリストであること〉だと予想できると先に述べておきました。根本原則4で裏付けることができる根本原則2「〈戦士〉の出現を待ち受けて、汝にて彼に戦わせる」=根本原則3「戦いに向けては〈戦士〉の教示を待ち受けて、その教示に従う」というのが、まさに自らをこの〈戦士〉に変容させることの条件です。〈戦士〉の正体は、コリンズにおいても「内から出現する唯一の真の教示」である〈沈黙の声〉(the Voice of the Silence)です。つまり「〈戦士〉の出現」=「〈戦士〉の教示」は自分の内から生じるということです。このことから〈戦士〉の正体が〈私の中のキリスト〉であることが読み取れてきます。根本原則2と3によって「〈戦士〉の出現」=「〈戦士〉の教示」を待ち受けるということから読み取れるのは、「或る状況(=戦い)に際して自らの内なるキリストに問う」ということと不可分であるということです。私が申し上げたいのは、「脇に寄る〈戦士〉に変容する」とは、まさに自らがworriorであること(小文字の戦士)であることを退けて、「キリストの内に死ぬ」=「私ではなく私の中のキリストが生きる」、ということの一変奏・オマージュ的な表現ではないかということです。このように捉えておくと、「〈戦士の出現〉」=「〈戦士〉の教示」が「エーテル界へのキリストの出現」ないし「胸部・心臓・感情意識・イマギナツィオン意識がキリスト・インパルスに貫かれること」と関連しているようにも見えてくるようになれるのではないでしょうか。そのことは、先に引用したコリンズの根本原則4の続きを読むことでも理解できると思われます。

Look for him, else in the fever and hurry of the fight thou mayest pass him; and he will not know thee unless thou knowest him.  If thy cry reach his listening ear then will he fight in thee and fill the dull void within. And if this is so, then canst thou go through the fight cool and unwearied, standing aside and letting him battle for thee. Then it will be impossible for thee to strike one blow amiss. But if thou look not for him, if thou pass him by, then there is no safeguard for thee. Thy brain will reel, thy heart grow uncertain, and in the dust of the battlefield thy sight and senses will fail, and thou wilt not know thy friends from thy enemies.
He is thyself, yet thou art but finite and liable to error. He is eternal and is sure. He is eternal truth. When once he has entered thee and become thy Warrior, he will never utterly desert thee, and at the day of the great peace he will become one with thee.

〈戦士〉の出現を待ち受けよ。さもなければ戦いの熱と慌ただしさの中で汝は彼を逃してしまうだろう。汝が彼に気づかなければ、彼が汝を知ることはないのだ。もし汝の訴えかけが彼の聴く耳に届けば、彼は汝にて戦い、胸中の澱んだ虚しさを満たしてくれるであろう。そうなれば、汝は、脇に寄り、汝のために彼に戦わせることで、疲れを知ることなく冷静に戦い抜くことができるであろう。そうなれば、汝の打撃は百発百中となるだろう。しかし、汝が戦士の出現を待ち受けず、逃してしまうなら、汝を守ってくれるものは何もないだろう。汝は頭が混乱し、心の不安定さが増し、戦塵に覆われて眼が眩み、感覚が鈍り、友と敵の区別がつかなくなるであろう。
〈戦士〉は汝自身である。しかし汝は有限で誤りを犯しやすいが、彼は永遠で確実性がある。彼は永遠の真理である。彼が一度汝の中に入って、汝の〈戦士〉となれば、彼が汝を見捨てることは決してないだろう。そして、偉大なる平和の日に、彼は汝と一つになるであろう。(メイベル・コリンズ”Light on the Path”より私訳)

少なくともコリンズの根本原則は、十分に或る状況に際しての「キリスト衝動」「キリストの内に死ぬ」「私ではなく私の中のキリストが生きる」についての注意書きとしての側面を持たせることができるものだということはこれで伝わりましたでしょうか。先だってご紹介した『歴史徴候学』の第四講から解説したことにも、まさにコリンズからの根本原則にも見られるキリスト衝動が生きていると見て取ることができるだろうと思われます。これを書き換えてしまって読者に隠して失わせてしまうということは、あとはお察しの通りだということになるかと思われます。

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