GA38『シュタイナー書簡集』より(3)

3.ルドルフ・ロンスペルガー(※1)宛の手紙

ウィーン近郊のオーバーラー(※2)
1881年7月27日

親愛なる友よ!

 今朝、君の愛すべき手紙を受け取ったよ。君に『最後の騎士』(※3)をずっと前から返していないのは、ひとえにここ数日の苦痛に満ちた出来事のせいなんだ。試験は避けて通れないものだし、特に最後の二つの試験には、僕は今年、予想以上に時間がかかってしまったよ。君に請け負うけど、決まりきった複雑な数式をひたすら頭に詰め込むなんて、まるで精神の調教みたいだったよ。それで他のことが何も手に付かなくなってしまってね。君が僕に休暇を通して本を貸してくれる用意があるって聞いて、僕はすごく嬉しく思うよ。僕は君のこの厚意を十分に活用させてもらうつもりだ。君は僕の『自由の哲学』(※4)の序説について尋ねてきているね。まだ見せることができなくて申し訳なく思っているよ。でもこれは子どもの遊びじゃないんだ。率直に言わせてもらうけど、僕には、僕が僕の体系を完全に放棄してしまったんじゃないかっていう君の言葉が、本当に奇妙に思えてならないんだ。哲学は僕にとって内なる必要不可欠なものであり、それがなければ人生は空虚な無でしかないんだよ。この必要性を満たすためにこそ、君が「僕の体系」と呼ぶものがあるんだ。この必要性は、おそらく死によってのみ消え去るだろうね。だから、体系を放棄するなんて、君はそんなふうに言ってくれちゃっているけど、それはせいぜい冗談でしか言えないことなんだよ。8月になれば、きっと必要な安静が得られ、僕の愛する『自由の哲学』の大部分を紙に書き留めることができるだろう。進捗状況については報告を怠らないようにするよ。僕はあらゆる余計な外出を控え、時間を奪うあらゆる娯楽を避けて、ただこの仕事に専念するつもりだ。もう形式についても少しも迷いはないんだ。それはシンプルな散文スタイルになるだろうね。書簡形式でも対話形式でもなく、あまり段落分けをせず、よくある学者然とした引用や学校仕込みの美辞麗句もない感じだよ。シラーの論文『素朴文学と情感文学について』(※5)を見てよ。それからああいう論文が次々と連なっていると考えてみてくれ。そうすれば『自由の哲学』の形式が想像できるはずだ。その形式自体が、ツィンマーマン風(※6)には見えたくないことを宣告しているんだよ。何の無理もなく書かれ、事柄への愛を表明し、内容的につながりのある論文が次々と連なっているものは、内容一覧がただ引き延ばされただけの本よりも読みやすいだろう?もちろん体系性が欠けちゃいけないけどね。でもそれが『形式美学』の意味で読者をいつも悩ませるようじゃダメなんだ。形式を通じて内容をあまりに身近にして、哲学的思想を楽しい教養小説のように読めるようになれば嬉しいと思うよ。それは可能だと僕は信じているんだ。この件全体について君にお願いしたいのは、僕が自分の哲学を空想から捏造して、だからいつでも投げ捨てられるなんて、冗談でも思わないでほしいってことだけなんだ。作品だったらそうすることもできるかもしれないけど、世界観や人生観ではそうはできないからね。どこを見渡しても、僕の見解の新たな確証しか見えなくて、それらは日に日に僕を納得させるんだ。

 君が自作の戯曲を清書する暇がないことは残念だけど、次に会う時には、君が僕の『自由の哲学』を読むのを楽しみにしているのと同じくらい、僕も君の戯曲を読ませてもらえるのを楽しみにしているよ。

 君がビュヒナー博士(※7)を読んでいるって聞いて、僕はあまり喜べないよ。この反動的で進歩の敵みたいな人物についても、君は僕の考えを完全に誤解しているみたいだね。僕は『力と物質』っていう本に書かれていることが嘘だなんて一度も言ったことはないよ。でも、いくら2×2=4っていうのが真実だからって、そんなことについてわざわざ分厚い本を書こうなんて馬鹿げた考えを持つ人はいないだろう?この本では読者に、そんな自明で陳腐で味気のない、大衆受けを狙った安っぽい真理がまるで珍味のように振舞われているんだよ。恐らくこんな小物臭くて偏狭なことについて言葉を費やす価値なんてさらさらないと思うけど、この手の科学者や、暗冥で反動的な隠れウルトラモンタニストたちが、古典的ドラマに興味を示さないコッツェブー風(※8)の大衆と同じように高尚な真理を理解できない浅はかな人間を生み出してしまうから困るね。こういう暗冥で反動的な二流の連中、つまり19世紀のニコライみたいな連中(※9)と戦わなきゃいけないのは、彼らが昼食後やカフェでザフィア(※10)の作品みたいに味わうのにちょうどいい、精神的な努力も才能もほとんど必要としないような代物を売り物にして、高尚なものへの関心を全部吹き飛ばしちゃうからだよ。だから僕が友情を込めて君にアドバイスするとしたら、こう言うよ。こんな暗冥で反動的な、光を嫌う本は、勇気を出して隅っこに放り投げてしまえ!って。若い詩人の君にとってこの本は百害あって一利なしだよ。今まで読んだことを忘れる必要はないよ。だってこの本からは何も学べないんだからね。詩人としての君は、いつかこういう退歩的で非ドイツ的で道徳的にも低俗な迷妄と戦わなきゃならなくなるだろうしね。要するに、この本に書いてあることは全部本当かもしれないけど、極めて自明で、退屈で、ばかげてさえいるんだよ。

 もっと嬉しいのは、いや非常に嬉しいのは、君がゲルヴィーヌス(※11)をじっくり研究してることだよ。彼のことは最近僕にも親しみが出てきたんだ。まあ後半部分だけだけどもね。彼の現代の主要な課題についての見事な特徴の描写は、僕に本当の満足感を与えてくれるよ。シラーの評価は徹底したものではないけど、題材への愛情を込めて書かれていて、ある種の道徳的な親近感に支えられているんだ。君が知っているかどうかはわからないけど、僕はダインハルト(※12)の『シラーの美的書簡について』を読んだよ。この論文をいつか目にする機会があったら、本物の哲学者の論文や文体や道徳的立場がどんなものか分かるはずだ。

 僕の机の上にはデューリング(※13)の分厚い本『哲学講座』がある。大部分はもう読み終わったよ。デューリングについての僕の判断は完全に固まった。彼の哲学はあらゆる哲学的退行の最悪の見本だよ。彼の見解は徹底して野蛮で反文化的で、時には粗野ですらある。ユダヤ人とレッシングについての彼の著作(※14)は、彼の偏狭で利己的な哲学の厳密な帰結だよ。これだけ言えば十分だろう。彼の物質的な状況は哀れなものだよ。彼は若い頃に粗野な知識をある程度身につけて、それを今いろんな方法で大衆に売りつけてるんだ。彼は必死になって本を書かなきゃならない。それが彼の唯一の収入源だからね。彼はもう自分の知識に何か付け加えることはできない。その間、自分と家族を養う手段がないんだから。それに加えて、実際の迫害や中傷があって、彼はそれに苦しめられて、今も苦しみ続けている。これは本当に悲惨な状況だよ。僕個人としては、哲学に関してはデューリングとの関わりはもう終わりにしたよ。彼に費やした時間は完全に無駄になってしまったね。

 君は才能と天才についても書いてるね。君も知っての通り、僕は人間の精神が才能や記憶力などいくつかの部分から成り立っていて、天才もその一部だと考えているんだ。この天才っていうのは本質的には誰もが持ってるんだけど、精神のいろんな構成要素は人によって発達の度合いが違うんだよ。天才が特に強く発達している人のことを、僕たちはただ単に天才って呼ぶわけだけど、でも、才能だけの人にも天才は少しはあるし、これが特殊な素質だと認められるなら、そういう素質は普通の才能を持つ人も示しているってことになるんだ。内面に対応するものがなければ、外からの影響は空虚な無に過ぎないんだよ。

「眼が太陽のようでなかったら、どうして我々は光を見ることができようか。神の固有の力が僕たちの内にないとしたら、どうして神的なものが我々を魅了することができようか。」

 だからこそ、ゲーテの見方は、君が引用した箇所よりもずっとよく特徴づけられてるんだ。
 このまま書き続けたいのは山々なんだけど、今日はここまでにしないと。ごめんね、親愛なる友よ。僕は明日ウィーン・ノイシュタットに行くんだけど、もう夜遅いんだ。君が僕に宛てて書いてくれた一行一行を僕はとても嬉しく思ってるよ。どうかまたすぐにこの喜びをくれないかな。君の言葉は、最高に素晴らしい友達のように受け止められるってことを心から信じていてほしい。
じゃあまたね。

君の友 ルドルフ・シュタイナー

【全集編者註】
※1)ルドルフ・ロンスペルガー(1862-1900年)は、ルドルフ・シュタイナーの青年時代の友人であった。このこと関しては、『自伝』第4章からの以下の一節を参照されたい。「この時期に、私にとってもう一つ重要な青年時代の友情があった。それは、金髪の若者エミール・ショーナイヒとは全く対照的な若者に対するものだった。彼は自分を詩人だと感じていた。私も彼と多くの時間を刺激的な会話に費やした。彼はあらゆる詩の種類に大きな才能があった。彼は難しい課題に取り組んでいた。私たちが知り合ったとき、彼はすでに悲劇『ハンニバル』や多くの抒情詩を書いていた。私はこの二人の友人と一緒に、シュレーアが大学で行っていた口頭発表と文章表現の練習にも参加していた。これらの練習から、私たち三人、そしてほかの多くの人々にとっても最高の刺激が生まれた。私たち若者は、自分たちが精神的に成し遂げたことを発表でき、そしてシュレーアは私たちと全てを議論し、彼の素晴らしい観念論と高貴な熱意で私たちの魂を高揚させてくれた。私の友人は、私がシュレーアの家を訪ねることができるようになった。彼は常に活発に振る舞っていたが、実際は重荷に押しつぶされているようであった。彼は内面的な葛藤に苦しんでおり、自分の職業にも満足できていないようであった。彼の関心は詩作にのみ向けられており、それ以外の人生との関わりを見出せずにいた。最終的には、彼が不治の病に冒されているのではないかと私は強く疑うようになった。この根拠のない疑念を打ち消すことはできなかった。そして、ついに私は、私に非常に近しかったあの若者が自ら命を絶ったという報せを受け取ることになったのである。」ルドルフ・シュタイナーは、1900年10月6日付の「文学雑誌」第40号に、「追悼文」と題して彼について書いた(後に「1887年から1901年までの文化と時代に関する論文集」GA Bibl.-No. 31、360ページ以降に再録)。また、フリードリヒ・ヒーベルの『ルドルフ・シュタイナーとその青年時代の友人ロンスペルガー』(「ゲーテアヌム」1967年3月2日、第46巻第9号)、ロンスペルガー・フリーデンタールの『ルドルフ・シュタイナーへの手紙(III)』(『ルドルフ・シュタイナー全集への寄与』第54号、1976年イースター、34ページ以降)も参照。

※2)インツァースドルフの隣村で、ルドルフ・シュタイナーの父親が鉄道員として勤務していた。インツァースドルフもオーバーラーも、ラーアー山あるいはウィーン山の南斜面にある。

※3)アナスタジウス・グリュンの連作物語詩『最後の騎士』、1830年。

※4)ルドルフ・シュタイナーはこの頃すでに、後に『自由の哲学』で表現されることになる思想に取り組んでいた。

※5)この論文は1794年9月から1795年11月にかけて書かれ、初めて1795年に雑誌「ホーレン」に掲載された。初版は「短編散文集」第2巻、ライプツィヒ、1800年。

※6)哲学者ロバート・フォン・ツィンマーマン(プラハ1824年-1898年ウィーン)を指す。主に『形式科学としての一般美学』(ウィーン、1865年)と『一元論的基礎に立つ理想的世界観の体系の概要としての人智学』(ウィーン、1882年)で知られる。

※7)ルートヴィヒ・ビュヒナー(ダルムシュタット1824年-1899年同地)、『力と物質』、フランクフルト・アム・マイン、1855年。

※8)アウグスト・フォン・コッツェブー(ワイマール1761年-1819年マンハイム);巧みだが大抵は表面的な劇作家。

※9)啓蒙主義の時代の論客、批評家、物語作家フリードリヒ・ニコライ(ベルリン1733年-1811年同地)にちなんでこう言われている。時代遅れの理屈っぽさで古典主義者やロマン主義者の反発を買った。

※10)モーリッツ・ゴットリープ・ザフィア(ハンガリーのロヴァスベレーニ、1795年-1858年ウィーン)、作家。彼の随筆と機知に富んだおしゃべりは、初めて1832年に『著作集』(全4巻)としてまとめられた。ザフィアは機知に富んだ皮肉屋であったが、信念がなく浅薄であった。

※11)ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌス(ダルムシュタット1805年-1871年ハイデルベルク)、歴史家および文学史家。『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』(1835年-42年、全5巻)を著しました。第5版は『ドイツ文学史』(1871年-74年)という表題で出版されました。

※12)ハインリヒ・マリアーヌス・ダインハルト(1821年-1879年)、『シラーを評価するための寄与-人間の美的教育に関する書簡』。G・ヴァハスムートによって新たに編集され、シュトゥットガルト、1922年。

※13)オイゲン・デューリング(ベルリン1833年-1921年同地)、『厳密に科学的な世界観および生の形成としての哲学講座』、ライプツィヒ、1875年。

※14)ユダヤ人とレッシングに関する彼の著作:『ユダヤ人問題』(ベルリン、1881年)と『レッシングの過大評価とユダヤ人の代弁者としてのレッシング』(カールスルーエ、1881年)。

※15)ゲーテ『おとなしきクセーニエン』III。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?